先日大変くやしいことがあった。その内容をここに記するのは、恨みつらみだらけの駄文になる恐れがあるので、あえて自分の胸の中だけしまっておくつもりだ。ただ心を紛らわすために、色々と“くやしい”本を探してみる。

中原中也の詩に、私は「くやしさ」を感じる。天才詩人と自分の「くやしさ」を同等に扱うなんて愚かとは思うが、心が収まるまでの間、この愚考を赦してほしい。

中也18歳の時、恋人だった泰子は、小林秀雄の許へ行ってしまう。晩年の小林の写真を見ると老齢でありながら整った顔立ちと美しい銀髪、すっきりと垢抜けたたたずまい、若い頃はさぞや美青年だったことがうかがえる。

童顔で3歳年下で、山口の温泉地に育った中也より、東京育ちのスマートな小林に走った泰子の気持ちは良くわかる。しかも彼は文芸評論家である。

例えば音楽評論家は、いろいろ曲の批判をするが、もしアーティストから「じゃあ、おまえ何か作ってみろ」と言われたら何も出来ない。だが文芸評論家は違う。特に小林だったらその作家をしのぐだけの技量を持っている。

中也のくやしさはどれほどだったろう。だがその後も彼は、詩作について小林を頼りにし、また泰子に対しても愛情を持ち続け、彼女が劇作家との間に子を生んだ時には、名付け親になっている。

しかし中也の不幸は終わらない。長男の死をきっかけに心身とも衰弱し30歳の若さで急逝する。一方小林は長寿を全うした。

くやしさは常に人生についてまわる。これに苦悶しながらやがて美しい果実を実らせるか、醜い恨みつらみだけが残るのか、それは本人の心しだいだろう。

だが今はただ、この悶々とした気持ちを天才詩人になぞらえて、心の静寂を待つしかない。

    

朝焼け


中原中也詩集