ラプレ若い気品のある人妻が、一糸まとわぬ姿で、鏡の前に向き合う・・・。これほど淫靡で美しいものが、ほかにあるだろうか。この場面だけで一篇の美しい詩が生まれそうだ。

私が知っている限り、三つの小説の中でこのシーンが出てくる。

まず、ロレンス著「チャタレイ夫人の恋人」、そして三島由紀夫著「午後の曳航」、同じく三島の「美徳のよろめき」だ。

「チャタレイ夫人の恋人」のコニィの場合、彼女は本来男を愛し、そして愛され子供を産むにふさわしい豊かな肉体を持っていた。だが、下半身不随で、そのため精神ばかりが肥大した夫に尽くすうちに、からだはだんだんとがり、骨ばっていく。成熟しないまま、しぼんでいく自分を見て、彼女は苦い涙を流すのだ。

「午後の曳航」の房子の場合。未亡人の彼女は、均整のとれた美しい肉体を持っているが、いみじくも彼女の息子が言うように、それは「可哀そうな空き家」なのだ。その美しい肉体を見るたび、彼女の女としての苦悩は深くなっていく。

さて最後「美徳のよろめき」の節子だけが天真らんまんだ。門地の高い家に生まれながら野性的な彼女は、自分の肉体と向かい合うことで心の安らぎを見いだす。まるで小学生が、カバンの中身を点検して安心するかのように。

これから始まるであろう男との逢瀬を思い、遠足前の子供のようにワクワクしている、そんな節子の肉体は、ほっそりして少年のようだ。

自分の肉体を見つめながら、やがて新しい世界へ飛び込んでいった女たち。その結果がどうであろうと、彼女たちの美しさと強さは心に残る。

    

 
美徳のよろめき