ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2005年01月

あまり絵画のことは詳しくないが、フェルメールの絵はいいなと思う。本物はまだ見たことはないが、素人でも威圧感なしに見られる静謐な暖かさと、色彩、特にブルーや黄色の美しさに惹かれる。
 
フェルメールの数少ない作品のうち「青いターバンの少女」は中でも異彩を放っている。まず他の作品が、いかにもふっくらした17世紀の女なのに対し、「青いターバンの少女」は顔立ちが今風というか、現代の女の子の顔立ちだ。そして絵に描かれていることを意識した表情、変な例えだがアラーキーとモデルの女の子みたいな、人間的な関わりを感じるのだ
 
映画「真珠の耳飾りの少女」は、この「青いターバンの少女」をモチーフにした映画である。私は映像が素晴らしければ、どんなつまらない内容でも満足する得な性格だが、この映画はまさしく映像も内容も素晴らしい、大満足の作品だ。
 
フェルメールはここでは、絵を描くことと子供を作る(!)ことしか出来ない甲斐性なし男として描かれている。その妻は、ひたすら子供を産み、妻であること以外は何のとりえもない凡庸な女。ただそんな女特有の鋭いカンで、奉公に来た少女グリートを憎むようになる。
 
フェルメールとグリートが、画材の調合をするシーンは微笑ましい。当時は市販の絵の具なんてないわけだから鉱石や顔料などで調合するのだが、芸術家にとって自分だけの色を創り出すのは大きな悦びだろう。その喜悦を共有するうちに少女は主人を「男」として意識するようになる。
 
2回グリートが主人に「タメぐち」するシーンがある。泥棒の疑いをかけられた時の「help me」と耳にピアスを入れる時の「do it」。このときの少女は完全にフェルメールを「男」として見ている。そしてまたピアスをあけるシーンの、まあエロティックなこと。あの痛みと切なさを味わってしまったら、もうこの屋敷にいることは生き地獄だろう。追い出されて良かったのだ。
 
「青いターバンの少女」は、はからずも「少女」を「女」へと開眼させた象徴として描かれているが、あの絵を見たら、色々と想像力をかき立てられるのが当然だろう。そんな作品を残してくれて、ほんとにありがとう!
 
  
   
 

真珠の耳飾りの少女 通常版

中上 健次かなり前新聞で読んだ記事に、中上健次の小説の英訳のことが載っており、その中で「路地」という言葉が”Ghetto”と訳されていることを知った。“ゲットー”と聞くと我々は第二次大戦中のユダヤ人居住区を思い出す。

言うまでもなく中上健次の小説に出てくる「路地」は被差別部落のことだ。でもゲットーじゃないだろうと思ったり、いや案外、外国人の見る目の方が正しいのかもと考えたり。

さて、初めて読んだ中上の小説は「蛇淫」という短編で、これはATG「青春の殺人者」という映画にもなった。テーマは「親殺し」である。

彼の小説にはやたら親殺し、兄弟殺し、兄妹相姦が出てくる。そして腹違い種違いの兄弟姉妹。現代人からみたら何ともうっとうしい世界だ。

さっさと都会に出て、自由で気楽な生活をすればいいのに、と思うのだが、この中上ワールドの住人たちは、紀州に、そして「路地」にこだわり続け、さながら紀州・熊野を舞台にしたギリシャ悲劇の様相を呈している。さんさんとふりそそぐ太陽、深緑の山々、碧く澄んだ川、紀州の自然がそれらを優しく包みこむ。そしてその中心にいるのが秋幸だ。

秋幸はたくましい若者だ。朝から夕方まで黙々と、つるはしやシャベルで土方仕事をしている。享楽や賭け事に溺れないストイックな男だ。中上の作品「岬」と「枯木灘」に登場する彼は美しく、また悲しい。

暗くてうっとうしくて文体も読みづらい中上作品だが、それでも惹かれるのは、自分の心の奥に血の絆に対する切望があるからだろうか。

 

    
枯木灘

先日大掃除をしていて、家具の下から埃だらけの文庫本を発見。見ると、ローレンス著・伊藤整訳「チャタレイ夫人の恋人」だ。自分は買った覚えがないので誰かが忘れて行ったのか。まだ未読だったので早速読み始めた。すると・・・・・。

話が途中で飛ぶのだ。おかしいな、と思いながらも読み続けると、夫人と森番が人目を忍んで小屋で逢う場面でまたしも話が途絶え・・・・・・・わかった!

あわてて奥付を見ると昭和39年6月10日発行。あの有名な「芸術か、猥褻か」で物議をかもし、結局情交の場面が削除された版だったわけだ。すっかり忘れていた。

でも、なんだかうれしくなってきた。今じゃいつでもどこでも小学生でも、パソコンのクリック1つでアダルトサイトに行ける時代だ。なんだか自分が、戦前特高に検閲されるアカの作家か、戦後教科書に墨を塗られた小学生になったような気が(ほんとかよ!)。久々に新鮮な驚きを味わった。

ついつい脱線してチャタレイ裁判の記事をネットで調べたりして、やっと今日読書終了。

まず意外だったのが森番メラーズのこと。野卑な青年と思い込んでいたのだが、これがとても頭の良い読書好きの、物静かな男なのだ。体格も華奢でどちらかと言うと病弱だ。高い能力がありながら森番という職業を選んだのも、人間関係、特に下品で性悪な妻のせいですっかり厭世的になり、なかば隠遁生活を送るつもりでチャタレイ家の森番になったのだ。

それに比べてコニイ(チャタレイ夫人の名)の夫クリフォドは、戦争で下半身不随にはなったが、それ以外は壮健、性格は意固地で冷淡、そしてよくしゃべる。自分と同じ階級の者同士の意味の無い議論。会話には書物からの引用が多く、自分の知識を誇示するための脳髄の垂れ流しといったおしゃべりにコニイは心底ウンザリしている。また夫が炭鉱経営者として、その仕事に躍起になっているのも気に入らない。効率よい成果を挙げるため、坑夫に非人間的な作業を強いる炭鉱の仕事を、コニイは嫌っているのだ。

私の目にはメラーズの方が上品で高貴で、貴族のクリフォドのほうが野卑た通俗的な男に見えてしょうがないのだが、階級社会イギリスでは、貴族と森番の身分の差は歴然としている。だが自然を愛し、インテリゲンチャのコニイはメラーズに惹かれ恋に落ちる。

どちらかと言うと、禁欲生活を送っているメラーズを、コニイが誘惑したと言う方が当たっている。またこの2人はセックスでもなかなか相性が良かったようだ。お上から検閲を受けているので(!)前後の文章で判断するしかないが。またメラーズは物静かな割にはセックスに対して先取の気風を持っているらしく、なんかいろんなことを試しているみたいだ(これもあくまで憶測で)。戦時中は男性とも経験があったと見受けられる。うーん。でもこういうタイプの男っているよね。おとなしそうなのに実は絶倫とか。

夫クリフォドにはちょっと気の毒だったが、理想のカップル誕生!で、さわやかな読後感だった。今度は完訳版にチャレンジしてみよう。むむむ。

       


チャタレイ夫人の恋人

福岡県は他の地域と比べアジア系外国人が多い。街を歩けば日本語以外の言語が祇園太鼓よく飛び交っているし、デパートや公共の施設では、日本語・英語の他に、中国語・韓国語の案内掲示板をよく見かける。

高速船3時間で、韓国に行けるし、今後ビザの優遇などでますます福岡の地を訪れるアジア系外国人は増えることだろう。

さて、’03年の福岡一家殺害事件に関して、2人の被告に、死刑と自首を認められての無期懲役が言い渡された。あともう1人の被告は現在福岡地裁で公判中である。

新聞やテレビで見る限り2人ともおとなしそうな目立たない青年である。果たして本当にこの若者たちが、あの残忍でかつ大胆な犯行を計画したのだろうか。主犯格の通っていた大学を知っているが、こじんまりとしたキャンパスで、落ち着いた良い大学である。特別優秀ではないが、犯罪や殺人の匂いからも遠い。

そこで・・・。死者を鞭打つような真似はしたくないのだが、真実を見極めるためにも、被害者Mさんの生前の行動を見てみた。

Mさんは、長らく韓国焼肉店を経営されていて、とても評判は良かったようだ。福岡と言う土地柄、アジア系外国人と交流する機会は一般の人より多かったと考えられる。

また無許可で金融業を営んでいて、トラブルを抱えていたらしい。そして借りていたマンションでは、違法の大麻を栽培していた。

本当に中国人学生の「外車に乗っていたので金持ちだと思った」という理由だけで、あんな残酷な殺人を犯したのだろうか。

一家殺害は、「見せしめ」という一面も考えられる。

もし黒幕がいて、それが学生たちに「本当のことをしゃべったら、お前たちの家族や親族を皆殺しにする」と脅していたら・・・。親族の絆を大事にする彼らは黙って死刑を待つしかない。無期懲役なら御の字だ。

マスコミも一時はMさんの行動を追っていたのに、ある時期にピタリと消えて、いつの間にか「被告はすぐカッとなる性格だった」だの「生活が苦しかった」だの学生だけの犯罪と決め付けるような記事を載せるようになった。

そういえば世田谷一家殺害事件も、未解決のままだ。難航しているのは何かに配慮しているためか?

マスコミがあまり触れなくなったこれらの事件を、機にふれ折にふれ語って行きたいと思う。世間が忘れ去ってくれることを“敵”は待ち望んでいるのだから。

そうは行くもんか!

 

 

 

 

 

 

ごくたまにだが、レンタルビデオで思わぬ拾い物!をすることがある。この「暗い日曜日」もその1つだ。「暗い日曜日」とはハンガリーのピアニストが作曲し、これを聴いて自殺者が続出したため、発禁になったこともあるといういわくつきの曲で、(そのピアニストも後日自殺した)この映画はそれを元にした物語である。

暗い映画を想像していたのだが、良い意味で裏切られた。物語はミステリー仕立てになっており、見終わった後、思わぬ爽快感を味わうことになる。

まずブダベストの街並みが美しい。ドナウの真珠と呼ばれ世界遺産にもなった川や鎖橋、王宮はもちろん、歴史を感じさせるくすんだ色合いの建物や家並み。中年男ラズロの経営するレストランの落ち対いた内装やインテリアなど、どのシーンを切り取っても絵になる。

次に主人公イロナの何と美しいこと。見ようによってはかなりエゴイストでわがままな女だが、まぁあれだけ美人だったら許されるだろう。彼女のブルーを基調としたファッションもシックで素敵だ。それから恋人のラズロ。ちょっとトカシキ君に似てるのが気になったが、洒脱で粋なユダヤ人。そして名曲を作ったピアニスト青年との三角関係。この3人に更に、ドイツ人の青年が絡んでくる。時代は第二次大戦前、ナチスドイツが台頭してきた時期だ。

このドイツ人のハンス、最初はいつもライカを肩に下げ、イロナに振られてしょぼーんとしていたうぶな青年だったのに、ナチの拡大と共に段々人格が変わっていく。制服姿が似合いすぎて恐い。

ハンガリーは世界で一番自殺率が高いと聞いた事がある。本当だろうか。でも自殺が多いということは、それだけ人生と言うものを真剣に考えているからではないか。少なくとも自殺を考えたことがある人の方が、ない人よりも人間的に誠実な気がする。

ヨーロッパの美しい街ブダペストで繰り広げられる大人の恋物語。みずから死んでいく人もいれば、たくましく生きのびて目的を遂げる人もいる。どちらも誠実なハンガリー魂である。

 

 

 

自然自分がどうしようもない怠け者のせいか、働き者がたくさん出てくる物語が大好きだ。特に高村薫氏の小説に出てくる男たちはよく働く。刑事、守衛、アイルランドのテロリスト、政治家の運転手、ほんとに寝る時間があるのかと心配になるほどだ。

例を挙げると「地を這う虫」に出てくる元刑事は、朝8時から夕方6時まで倉庫会社で働き、終わると歩いて薬品会社に行き、そこで夕方7時から朝7時まで守衛の仕事。2時間ごとの仮眠で睡眠は足りてるらしい。しかもこの男は倉庫と薬品会社の間を通うのに、わざとジグザグに歩いて、住宅や花木、電柱の張り紙、車など様々なものを細かく見て周り、目に付いたものがあればノートに記録するというまめな男だ。そのまめさのおかげで、事件に巻き込まれるのだが・・・。

他に男たちに共通なのは、食べるものに無頓着なこと。たとえば「黄金を抱いて飛べ」に出てくる幸田は、箱寿司と牛乳を買って仲間のモモと分け合って食べる。自分はこの場面が一番好きだ。

たぶん幸田一人だったらアンパンと牛乳ですませたかも。でもモモがいるし何か栄養のあるものを食べたほうが、と考えて選んだんだよね、箱寿司と牛乳。確かに合わないかもしれないけど、そこに幸田のぶっきらぼうの愛が感じられてじんとするのだ。

昔「フレンチ・コネクション」という映画で、主役の刑事が寒空の中、ピザを不味そうに食いながら、高級レストランで食事をしている容疑者を見張っているシーンを見たことがある。ああいう感じ、いいなぁ。食い物なんか腹の中に入りゃいいのさ、そんなことよりまず仕事さ。

これを他人から強制されてするのは御免だが、自ら求めてするのであれば、こんな楽しいことはない。実際、高村の小説の男たちが羨ましい。高級レストランで食事をする男より。

 

 

先日大変くやしいことがあった。その内容をここに記するのは、恨みつらみだらけの駄文になる恐れがあるので、あえて自分の胸の中だけしまっておくつもりだ。ただ心を紛らわすために、色々と“くやしい”本を探してみる。

中原中也の詩に、私は「くやしさ」を感じる。天才詩人と自分の「くやしさ」を同等に扱うなんて愚かとは思うが、心が収まるまでの間、この愚考を赦してほしい。

中也18歳の時、恋人だった泰子は、小林秀雄の許へ行ってしまう。晩年の小林の写真を見ると老齢でありながら整った顔立ちと美しい銀髪、すっきりと垢抜けたたたずまい、若い頃はさぞや美青年だったことがうかがえる。

童顔で3歳年下で、山口の温泉地に育った中也より、東京育ちのスマートな小林に走った泰子の気持ちは良くわかる。しかも彼は文芸評論家である。

例えば音楽評論家は、いろいろ曲の批判をするが、もしアーティストから「じゃあ、おまえ何か作ってみろ」と言われたら何も出来ない。だが文芸評論家は違う。特に小林だったらその作家をしのぐだけの技量を持っている。

中也のくやしさはどれほどだったろう。だがその後も彼は、詩作について小林を頼りにし、また泰子に対しても愛情を持ち続け、彼女が劇作家との間に子を生んだ時には、名付け親になっている。

しかし中也の不幸は終わらない。長男の死をきっかけに心身とも衰弱し30歳の若さで急逝する。一方小林は長寿を全うした。

くやしさは常に人生についてまわる。これに苦悶しながらやがて美しい果実を実らせるか、醜い恨みつらみだけが残るのか、それは本人の心しだいだろう。

だが今はただ、この悶々とした気持ちを天才詩人になぞらえて、心の静寂を待つしかない。

    

朝焼け


中原中也詩集

  カミュ著「異邦人」の主人公ムルソーは、抱きしめたくなるほどいとおしい、バカ正直でタイミングの悪いやつだ。彼は、もっともらしい(しかし意味の無い)言葉を吐き出す、いやらしい大人たちとは対極にある。

世間は「定型化」からはずれた人を許さない。たとえ形だけでもママンが死んだ時には悲しそうにするべきだった、葬式のすぐ後、海水浴に行ったり女と遊んだりするべきではなかった。「太陽のせいだ」などとわけわからん事を言うべきではなかった。べきべきべきの嵐。

この小説は最初ゆっくりゆっくりスタートし、途中でだんだん加速して、クライマックスでいきなり終わってしまう。たとえれば全速力で走っていて、崖の上ぎりぎりでストップした感じ?もし未読の方がいたら、最初は少しかったるいかも知れないが、最後まで読んで欲しい。きっとカタルシスを感じる筈だ。

それにしても、ムルソーが海で女とたわむれるシーンの美しいこと。光り輝く太陽、海、空、あまりに美しすぎて逆に彼が死に向っている事を予感してしまう。いや彼だけの死ではなく、今、太陽の下で若さと美しさを謳歌してるすべての人にも、やがて永遠の死が訪れる、海や青い空とたわむれるのも束の間のことなんだと悟ってしまう。そんなそこはかとない空虚感がこの小説にはある。

自分はまだ「異邦人」を充分読み込んでいないので、多少理解不足だと思うが、これから何度もこの本をひもときながら、ムルソーとの束の間の逢瀬を楽しみたい。

                                                                            
異邦人


異邦人

レンタルショップでCDを借りる時、たまに’70年代のオムニバスアルバムを選ぶ時がある。最新のアルバムや好きなアーティストのを聞くのもいいが、自分が中学の頃ラジオから流れるのを聞いて「これいいな」と思った曲、わざわざレコードを買うほどではなかったけど、好きで屋根の猫ラジオから流れるのを心待ちにしていた音楽と出会えるのは懐かしい喜びがある。

さて、特に好きだった曲にロバータ・フラックの「やさしく歌って」というのがある。彼女のハスキーで乾いた、それでいてしっとりと情感のある声、控えめで落ち着いたストリングス、うっとりして聴き入ったものだ。

だから、映画「アバウト・ア・ボーイ」を見たときちょっと複雑な気持ちになった。この映画の中で、いじめられっ子マーカスは、うつ病の母のため学校の発表会で、彼女の大好きな「やさしく歌って」を歌おうとする。それに対してヒュー・グラント扮するウィルは、そんなうたを歌ったら学校の生徒みんなの笑い者になる、ますますいじめられる!と、必死で阻止しようとする。

確かにヒップ・ホップが席捲しているイギリスの小学校では、浮いた選曲だろう。でもそんなに悪いかなぁ「やさしく歌って」・・・。日本の今をときめくラッパーたちだって、たまに「名残り雪」とか聴かないか?

映画と原作は、ラストに向けての展開が違っているが、どちらも楽しめた。ヒュー・グラントは男の負け犬をやらせたら英国一だ。

そしてマーカスと言う少年、自分が辛い目にあっていても、つねに母のことを思い遣っている愛い奴だ。また原作版のマーカス少年の、上級生の女の子に対する優しさには思わず泣きそうになった。

未婚、子無し、職無し30男と、母子家庭で母はうつ病で自殺未遂、学校ではいじめられっ子の小学生と言う、見方によっては暗くて救いのない物語なのに、妙に明るく、見終わった後はとても爽やか。やっぱりイギリスは奥が深い。

   


アバウト・ア・ボーイ

ゆきやま資料が手元にないので、詳細はわからないが、コミック「MASTER・キートン」の中にこんな話があった。

とある国に大変横暴な王がいて、権力を笠に民衆を苦しめていた。ある時、気に入った女を見つけ、その夫を生きて帰る見込みのない戦地へ追いやるとその間、女を陵辱して自分のものにした。

やがて他国との戦に破れ、王は一人城から逃れた。王を憎む多くの民衆が、おびただしい数の石を投げつけ、ののしる。痛さと苦しさ。もはやこと切れそうになった時、一人の女が現れ王をかばって叫ぶ。「もう赦してあげてください。この人は充分苦しんだのだから」

見ると、その女は自分がその夫を死地に送り、辱めた女だった。

王の目に初めて悔恨の涙があふれた。

それから彼は別人のように、人々のために暑い日も寒い日も黙々と働き続けた。・・・そして王が死んだ時、村人は手厚く葬ったと言う。 ※細かいところが違っているかもしれません※

さて、あれは10何年前の事になるのか。いくらリーグ優勝できなかったからって「やりたいならおやりになって下さい」なんて森監督への冷たい言い方。当時西武ファンだった私は、そのシーンをテレビでリアルタイムで見、歯噛みしたものだ。

「プロ野球よりアイスホッケーのほうが好き」と公言したり、世界的な金持ちなのに日本の長者番付には一度も出た事がなかったり、長野オリンピック誘致の時、嬉しそうにシンクロの小谷さんやスケートの伊藤みどりちゃんと写真に映ってたり。

関連のホテルやデパートでは、オーナーが視察に来ると従業員一同、お客はそっちのけでお迎えをしたそうな。

彼に恨みを持つ人は多いだろう。そしてこれから先、つらい日々をおくることになるだろう。でもそれは仕方ない。今はいさぎよく法の裁きに従うしかない。

それにしても渡辺絵美さん、30年前のセクハラを何で今ごろ出してくるの。この人、数年前のミッチー騒動(というかマスコミが勝手に作り上げた)にも出てきたけど、もしかしてプロの・・・(以下略)

一時は“天皇”と呼ばれた堤さん。ダメダメだった西鉄ライオンズを、あれだけ立派なチームに創り変えたのだから、その手腕は見事なものだ。これからはその才覚を公共の福祉のために使って欲しい。晩節を汚したままなのは、みじめですよ。

 

 

 

 

 

 

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