ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2005年01月

村上春樹のエッセイ「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」の中に、今は亡き中上健二と白樺対談した時のくだりがあり、その中で、中上氏が村上に「お前、芦屋とか神戸とかの出身だったら、あのへんに被差別部落がいっぱいあっただろう」と言い、村上が返事に窮する場面がある。なんと17才になるまで部落問題の事をまったく知らなかったらしい。

自分も中学までは被差別部落の事は知らなかった。

私の住んでいる地域は在日韓国人や朝鮮人が多く、当然その子供たちが同じ小学校や中学にいた。でも名前は日本人名だし、何ら日本人と変わりなく学校生活を送り一緒に遊んだり勉強をした。ただ何人かの子は、中学途中か若しくは卒業後、チマ・チョゴリに身を包み、民族学校に通いだした。胸元にゆるく紐を結んだそれはとても大人っぽく、セーラー服の私たちに比べ、一人前の女性のようで羨ましかったことを憶えている。

さて高校生になった時、クラスにやたら世間知にたけている同級生がいた。だれだれは部落出身とか、あの地域には行かないほうがよいとか、先輩の某は部落出身なので就職試験に何度も落ちたとか。そして私たちはそんな話を感心しながら聞いていた。でも責めないでほしい。

今の学生は知らないが、私たちが高校生の頃は、世間知に長けていること、世の中の裏をよく知っていることが尊敬される条件だった。「差別はゆるさない」だの「みんな平等じゃないか」だの青臭いことを言おうものなら、たちまちクラスみんなの嘲笑の的になる。学生は何よりも和を重んじるのだ。わけ知り顔で頷く私たちは、見る人がみたら因習深い田舎に住む年寄り連中みたいだったろう。

勇気を持って「それは間違っている」と言えば良かった。でもだれも言えなかった。ひょっとしたら滔々としゃべっていた同級生本人でさえ、心の奥では「こんなの間違っている」と思っていたかもしれない。でもそれが言えない空気があった。

前述の村上はその「空気が読めない」タイプだったのだろう。だがそれは悪いことではない。いっそ清々しい。

自民党政権・ブッシュ=空気が読める。民主党・朝日新聞=読めない。

で間違ってないだろうか。

空気が読める政治家へ。どうか同和問題を自分たちの政略の材料にしないで、本来の意味に帰って、と青臭い事を言ってみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京極さんの本を初めて読んだのは3年前の夏だった。お盆休みに家でねっころがって「姑獲鳥の夏」を開き、読み進んだ。部屋の中では扇風機が規則正しい羽音を響かせ、外ではミンミンゼミが鳴いていた。富士山

そのうち心地よい睡魔がおそい、本を枕にして、しばしまどろむ。今度は夢の中に青白い顔の佳人や、羊水で濡れた胎児が現れた。これはうつつか幻か、朦朧とした意識の中で至福の時間を味わった。

京極さんの本は夏の午睡にもってこいだ。枕にするのにちょうど良い厚さと硬さ。また開いたドアに挟んでおけばいい風が入る。そしてただひたすらダラダラ読み耽る。大体あの厚さでは、バッグに入れて電車の中で読むことはできないし、机に向かってキチンと読むという雰囲気でもない。

今年の夏は、まだ未読の京極本を読んでみよう。そして読みながらいつの間にか眠ってしまい、目が覚めたら着物姿の細君が団扇で風を送ってくれている。足元には蚊取り線香、そしてお盆には切ったばかりのスイカ。そんな幸せを味わった人がきっといる筈だ。うーん、うらやましい。


姑獲鳥(うぶめ)の夏

初めて「佐伯祐三」の絵を見たときの記憶は忘れない。
そんな画家がいたことなど露知らず、友人にチケットがあるから一緒に行こうと誘われ、嫌々美術館についていったのだ。
 
まるで絵の具の匂いが漂ってくるような迫力、目まぐるしい色使い。わからない衝撃に突き動かされ、胸が高鳴る。
 
たまらず絵に声をかけてみた。「何でそんなに生き急いでいるの?」
ほとんどの絵に、何かに追い立てられているかのような焦りや緊張感がある。そして晩年に近付くほど、構図が少しずつ崩れている。
 
30歳で急逝した彼の顔写真を見た。眼光鋭く、芥川龍之介にも似た風貌だ。死因は結核とそれに伴う神経疾患。後を追うように、彼の幼い娘もこの世を去ったという。そういえば詩人の中原中也の次男も、その死の翌年後を追って死んだ。
 
中原中也は、2歳で死んだ長男の文也をうたった『在りし日の歌』が有名だが、次男の愛雅のことはあまり知られていないのが不憫だ。
 
芸術家のエネルギーは、時に幼い子に激しすぎるのだろうか。私も祐三の絵を見た後はぐったりして、食事もそこそこに帰宅した覚えがある。
 
いつかまた、祐三の絵を見るチャンスがあったらその時は、前の晩はゆっくり寝てご飯をたくさん食べて行こう。芸術を味わうのにも体力は必要だ。
 
 
 

佐伯祐三

昨年上映された洋画「トロイ」は、まことに我ら婦女子にとって「眼福」な作品であった。いい男たちがぞろぞろ出てくる出てくる、上はピーター・オトゥール演ずるプリアモス王から下は川パシリの少年まで、油断も隙もありゃしない。

肉体美もさることながら、彼らの小麦色の光り輝く肌にも目を奪われた。(やはり毎晩自家製オリーブオイルでマッサージをしているのか)

そして始めの方のシーン、女としけ込んでいるブラピ演ずるアキレスに向かっておずおずと、「My lord?」と呼びかける少年に萌えた。

さてこの“萌え”という言葉、今や現代版の「をかし」「あはれなり」のような詠嘆表現になりつつある。ちなみに大辞林によると、元々「萌える」は、芽が出る、芽ぐむ、きざすという意味だが、最近ではある種の性的表現として使われている。春に芽吹くというのが何となく性の目覚めをイメージさせるからだろうか。だがこの言葉の使い方は結構難しい。用例としては・・・

「トロイ」のシーンで、オデュッセウスを演ずるショーン・ビーン、44歳のおっさんなのに、何て可愛い太ももしてるんだ=萌え〜。

次はちょっとややこしく、悩めるお兄さんヘクトルを演ずるエリック・バナ。よく知らない役者なのでネットで調べてみたら、本職はコメディアン、ええ?あのすごい大胸筋や上腕二頭筋を持った193センチの長身のエリック・バナが実は有名なコメディアン?=何か萌え〜。

私の考えでは“萌え”には二通りの意味があると思う。まずは上記の用例ように、良い意味で不意打ちを食らい、それで思いもよらない「エロス」を感じた時。だから、もしエリック・バナがボディビルコンテストの入賞者だったらあんなに萌えはしないし、もしショーン・ビーンの太ももがしなびていたら、それこそ萎え〜となったはずだ。

それとあともう一つの意味。それは「いじらしい」だ。先ほどの「My lord?」と呼びかけた少年。小さきもの弱いものが、けなげに生きているさまが、“萌え”となる。言うなれば最初の“萌え”が肉欲的なら、あとのそれはプラトニック?本当か。なんかテキトーな気がするなぁ。

もし金田一晴彦先生がご存命だったら、どのように解説されるだろうか。聞いてみたかった。

   

 
トロイ 特別版 〈2枚組〉

何年も英会話の勉強をしているのに、遅々として上達しない。勉強する環境は充分整っているし、自分としても努力しているつもりなのに、つくづく情けなくなる。思えば中学の頃も数学や理科の教科と比べて英語の成績は甚だ悪かった。幼児の頃は、他の子より言葉数が少なく、両親に心配をかけたとも聞く。もともと語学の才能がないのか?いや自分で決め付けるのは卑怯だ。もっとがんばらねば。
 
考えてみれば聴く音楽はほとんど洋楽、映画だって洋画しか見ないのに、その言語が解らないなんてヘンな話だ。
 
ああ英語が解ったらどんなに世界が広がるだろうか。
 
自分としてはしゃべれるよりも、英文学の原書がすらすら読めるようになりたい。ブロンテ姉妹やオースティンを原書で読めたらどんなに素晴らしいだろうか。
 
そして、私の夢はJ・R・R・トールキンの「指輪物語」を全巻原書で読めるようになること。ラストの「Well, I'm back」まで読み上げたら、感動でそのまま心筋梗塞で死んでしまいそうだ。理想的な最期だ(おまえは何歳だ)
 
「指輪物語」に出会えた幸せをどう表したらいいだろうか。年を食ってくると感受性が鈍るせいか、なかなか感動する本にめぐり合えない。もしかしたら本の神様が残してくれた最後のプレゼントかもしれない。
 
牛歩の歩みでもいいから、もっと英語を勉強しよう。そして長い旅の末、
「Well, I'm back」までたどりつきたい。
 
街の風景

子供とは横暴な存在である。いつまでも母親が自分を愛していると信じて疑わない。普段は邪険に扱うくせに、いざ自分が不幸な時落ち込んでいる時、飛びこんで入けば、母親は両手を広げて自分を受け入れてくれると思い込んでいる。

ヘレン・フィールディング著「ブリジット・ジョーンズの日記」には、主人公のママがよく登場する。このキャラクターがまた強烈だ。(ブリジットが言う所の)おいしいシチューをつくってくれるだけのまるまっちい母親では絶対ない。我がままで、方々で恋の事件を起こし、周りに散々迷惑をかけながら反省の色がない。すばらしく魅力的なママだ!

彼女は「娘のためを思って」とか「心配だから」といったねっとりした母心を持ち合せていない。「こんなこと言ったら娘に嫌われる・・」といったオドオドした所もない。邪険に扱われても平気だ。やたら娘にバツイチの男を紹介したり、わけわからんパーティーに呼ぶのも単なる好奇心からだ。

このママはたぶん辛い子離れの時期を体験しているに違いない。そして苦しんだ末、「ただただ娘を心配する母親」より「自由に生きる女」を選んだのだ(それが正解!とは言い難いが)

そんな子離れしたママに比べ、娘はまだ母親に依存しているところがある。ママのぶっ飛んだ行動を見つめるブリジットは、なんだか寂しそうだし、自分が辛い目にあったことに気づかないママに、イライラするシーンもある。

その寂しさはやがて恋人が埋めてくれるだろう。そしてママはだんだん忘れ去られる・・・・・うーん、やっぱり母親とは割りにあわない存在だ。

ブリジッド

建築物母親とは横暴な存在だと思う。成長した子を、いつまでも自分の支配下に置こうとする。愛情という名の下に。

子供、特に娘は、大なり小なりそんな母親と戦いをくり返しながら自立してきた。最近、仲の良い二卵性母娘が多いらしいが、早く自立したかった私にとっては信じられないと同時に、少しうらやましい。

さて1月12日はアガサ・クリスティが亡くなった日だった。彼女の著書はたくさん読んだが、まず「アクロイド殺人事件」。これにはびっくりした。何がびっくりしたかと言うと、作中に麻雀をするシーンがあるのだ。当時高校生の我がクラスでは麻雀が大流行していたので、「イギリス人も麻雀するんだ・・」と、同級生と驚いた覚えがある。そして「オリエント急行殺人事件」。これにも驚かされた。何をというと、探偵ポアロが、貴族と話す時と下っ端の人間のそれでは態度が変わることだ。ああイギリスってやっぱり階級社会なのね、でもポアロってベルギー人では?などと思ったり。

そして、クリスティの作品の中にはミステリーでないのがいくつかある。その中の1つが「春にしてきみを離れ」。だが最後にどんでん返し(?)があるのは、ある意味ミステリーか。

主人公のジョーンは良き妻であり母だ。見ようによっては理想的な女性である。彼女は常に夫のため子供のためとがんばっているが、その愛が子供たちを歪ませていることに気がつかない。

子供や夫が、自分がいなくても生きていける、いや却って自分がいない方が楽しく暮らしていける。それを認めるのは母親としてさぞ辛いことだろう。でも、その辛い子離れを体験してこそ、より素晴らしい母子の関係が構築できるのでないか。年を食った娘はつくづくそう思う。

  春にして君を離れ

レトロ1半年くらい前から下腹に鈍痛がある。痛みは強かったり弱かったりバラバラ。我慢できないほどの痛みではないが、もともと婦人科系が弱い方なのでそっちの病気かな。癌の可能性も十分考えられる。つか痛みを感じ出したらもう手遅れなんでないの?

・・・こんなことウダウダ考える暇があるなら、さっさと病院行けよ自分。

最近 “死”をあまり恐れないようになった。年をとったせいか。もし余命1年とか言われてもわりと平気な気がする。いつ死んでもかまわない悔いのない人生だったからではない。むしろその逆で、生きることに対し淡白になっているのだ。まぁ自分からわざわざ死のうとは思わないが。

さて、「死ぬまでにしたい10のこと」というビデオを観た。特に見たかったわけではない。案の定つまらなかった。まず主人公のアンは23歳で2人の子持ち。失業中のダンナを助けるため夜間の清掃仕事をし、トレーラーハウスに住んでいる。ダンナは金髪でわりとハンサムだが、プールの作業員の仕事が見つかったことにすっかり満足している様子。

他人の人生をどうこう言える立場じゃないがこの2人、おとなしくて生真面目で野心というものがまるでない。ニルバーナのライブで出合った若い2人がなぜこんな、名もなく貧しく美しい世界で安穏しきっているんだろう。かったるい映画だなぁ。

そこにアンの母親が登場、不満一杯の表情、いつも怒っている。おや、どこかで見たことがある、と考えていて途中で気がついた。「ブロンディ」のデボラ・ハリーだ!もうこんなお祖母さん役をするようになったのか・・・・・ちょっと感慨。デボラ・ハリーのおかげで少し気分がシャンとなった。

ところで、アンは余命2ヶ月と医者から告知されてからも、生真面目さは変わらない。他の男性を好きになるのも「1度は女の子はロマンティックな恋をしなきゃ」という凡庸な願望にすぎない。それと心置きなく、ダンナの妻、子供たちの母を探すことが出来るから(不倫を体験することで、嫉妬心から開放されるので)

でもこのまま黙って死んでいくのが良い事なのか。あのダンナはアンのあてがった女性で満足するか?答えはNO!である。

あのダンナは苦しむだろう。23歳の妻は子育てと仕事に追われ、きたないトレーラーに住み、新しい服1枚買うこともなく死んだ。男だったら死にゆく妻に何かしてあげたかった、せめて一時だけでも、と思うのが人情ではないのか。

ダンナはあまり頭が良さそうじゃないので、もしアンの余命が2ヶ月と知ったら、きっととんちんかんなことをしそうだ。借金して似合わないドレスを買ってきたり、わけわからんグルメレストランに連れて行ったり・・・・・。でも、それで良いではないか。自己満足でも良いから、残された人が苦しまないチャンスを与えるべきだった。

もし私の余命2ヶ月と知った友人が、私のために(全然興味のない)ディズニーランドに招待してくれたら、苦笑いしながらもその善意はありがたく受け入れるだろう。善意にくるまれて逝くことが、旅立つ人にも残された人にも最高のプレゼントなのだ。

  


死ぬまでにしたい10のこと

キルトあまり人に話していない私の趣味に「パッチワークキルト」がある。密かにキャシー中島の「ハワイアンキルト展」を見に行ったこともあるくらいだ。気が向けば、チマチマと針を動かし、タペストリーやクッションなどを作っている。

ただキルトでもあまりメルヘンぽいのや、いかにもカントリー調なのはどうも苦手だ。そんなある日、素晴らしいアメリカンキルトを本で見たことがある。地味で色目も少ない布を使い、見事な針目で作り上げた作品。読むと、アーミッシュキルトだと言う。

「アーミッシュ」という存在を知ったのは、映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」を見たのがきっかけだ。戒律を守り300年前の生活を今も続けている人たち。電気も水道も車も使わない、決められた服装、髪型。自給自足の生活。

興味を持って彼らの生活を調べているうちに、その食生活とパッチワークキルトに目を奪われた。取れたばかりの蜂蜜、手作りのアップルパイやパンの美味しそうなこと。そして素晴らしいキルト。派手さや華美を嫌う彼女たちは、限られた地味な布しか使わない。それがかえってモダンさを生み、忍耐強い針仕事が見事な作品を創り上げる。

アメリカという世界一の文明国に住み、周囲には車や電気製品があふれている中、それでも悠々と自分たちの生活を固持している彼ら。数少ない写真を見ると、彼らはとても柔和な表情をしている。

さて、フェイ・ケラーマンの「水の戒律」という小説がある。これに登場する女性はアーミッシュではなく敬虔なユダヤ信徒だ。神聖な水浴場で起きたレイプ事件。これがきっかけで女性はロサンゼルス市警の刑事と知り合いになる。厳しい戒律の中で生きてきた未亡人と刑事が出会い、おずおずと言葉を交わし、愛を育んでいくあたり「刑事ジョン・ブック」を彷彿させる。

厳しい規則や戒律があっても、それが自ら望んだものであれば耐えていける。それどころかそれを楽しむことさえ出来る。アーミッシュのそれは強制ではない。18歳くらいになると外の世界で生きるかどうか選択出来る。そして残る決意をした者だけが、初めて洗礼を受けるのだ。

いつかアーミッシュの人を主人公にした小説を読んでみたい。外の世界の人を愛した彼ら(彼女)の行く末はどうなるのか、見守って行きたい。

 

 
水の戒律

中島らものエッセイの中に、漢文のO先生の事を書いたくだりがある。
学生だった彼は、いつも二日酔いのその先生が何となく好きだった。後日、先生はガスのホースを踏んで火が消えたのに気が付かず、亡くなられる。水面に映った月をとろうとしておぼれ死んだ李白のようだと彼は語る。
 
そのらも自身も、李白のような死に方をするとは思わなんだ。
ねらっていたのか?まさか。
 
面白い小説に出遭った時、夢中で読み進みハッと気がつくと終わりが近づいてパニックになることがある。そして読後の脱力感。長く味わいたい本に限ってアッと言う間に終わってしまうジレンマを、らもの本で何度も味わった。
 
らもはあざとい作家だ。笑いのつぼを心得ている。それもニタ〜っというシニカルな笑いだ。
 
らり中でアル中でブロン中で、ヘビースモーカーでワーカーホリック(本の多さ!)で、音楽を愛し文学に傾倒し、躁鬱で、大阪のおばちゃんも入っている、らも。
濃縮シロップのようなどろっとした人生。ほんまに不思議な人やった。
時々ネタがかぶっている事もあったが、まあご愛嬌や。
 
「ガダラの豚掘廚慮紊蹐忘椶辰討い觧温擁幻ァあのおびただしい書物をたぶん、らもは嬉々として読み耽っていたのだろう。
からだを張った「アマニタ・パンセリナ」も好きだ。でも作中「自分はリーガルなものしか手を出さない」と主張していたのに、なんで官憲に捕まるようなことしたんや。あほやん。
 
ワーカーホリックなお陰で、未読のらもの本がまだたくさんある。これからゆっくり読んでいこう。決して急いで読んではいけない。
 
楽しみは少しでも引き伸ばしたいから・・・・。
  
 
 

アマニタ・パンセリナ

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