ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2005年02月

学生時代、憬れていた大人の女性がいた。それはフランソワーズ・サガン著「優しい関係」の主人公、ドロシーだ。

45歳、バツイチで一人娘は結婚し、シナリオライターとして気ままな独身生活をしており、恋人もいる。ややアルコール中毒のきらいがあり、男好きでだらしないところもある女性だが、なによりも健全で善良な魂の持ち主である。

物語は、あるきっかけで若い青年が、この女性の家に空住むことになり、そこで繰り広げられる恋人との三角関係と、謎の殺人事件。サガンの小説では珍しいサスペンスティストの作品だ。

ドロシーのサッパリした性格と、舞台がアメリカの陽光輝くハリウッドのせいか、読後感は、爽やかで明るい。

この作品は、サガン作品独特の過剰な虚無感や諦念が少なく(もちろんこれは魅力なのだが)初めての方も読みやすいと思う。そして、主人公のなんと親切なこと。“親切にする”ということが、どんなに人を感動させるのか分かる。

さて、彼女のような“憬れの女性”には、とうとうなれなかったが、せめて頑張って、人に親切な女性を目指すことにしようか。

 

  



優しい関係

「個人教授」というフランス映画を観ていたときだ。主人公の高校生の男の子が、ある年上の女の人に夢中になり逢いたくてたまらない。とうとう授業中に「先生、帰ります!」といって女性のもとへ走る。

驚いたのは、帰りますと言われた先生も、「ああ、どうぞ」てな感じで全然意に返さないことだ。これが日本だったら絶対許してくれないだろう。(その高校生は別に不良ではない。ごく真面目な学生だ)。

当時中学生で、つまらぬ校則にうんざりしていた私は、個人主義が学生にも行きわたっているフランスの高校生を、羨ましく思った。

先日フランスの高校生が、バカロレア(大学入学資格共通試験)の入試科目削減に反対して、10万人以上の大規模なデモを行った。

フランスには高校生組合と言うのがあるのも、初めて知った。これが教員組合とスクラムを組んでこのたびのデモとなったらしい。教員と生徒は上下関係ではなく、同胞なわけだ。さすがフランス革命の子孫はすごい。

日本なら絶対ありえない事だろうな。「チッ、また試験内容変わるのかよ」とブツブツ文句を言いながらも、怠りなく新入試対策の準備をするのが殆どだろう。

どちらが良いか悪いかは愚問だ。お国柄、考え方が違うのだから。私見としては、そんなに大掛かりなストをするほど、悪い改正じゃないと思うのだが・・・リセエンヌ騒ぎすぎ。

さて、ソフィ・マルソー主演映画で「スチューデント」と言うのがある。美しいソフィーの肢体はまぁ置いといて、この中では真摯に勉強に励む大学生の姿が活き活きと描かれている。どんなに猛勉強中でも、バカンスと恋は忘れないというのがいかにもフランスという感じだが。

またこの国ではフランス語の授業が多く、国語が重要視されているのもよく分かった。

個人主義で自由で自国の文化を大切にする、ちょっと付き合いにくい感じだが、彼らの真摯な姿勢には清々しさを覚える。

     

 枯葉


スチューデント ヘア無修正版

雪山片岡義男の小説はどれも好きだが、特に印象に残っているのが「クロスロード」という短編だ。

これは、砂漠を愛し、そのため夫と別れ1人でサハラ砂漠のオアシスで生活していた女と、アイスランドの火山の噴火に遭遇し、夫を亡くした女が、ある日偶然、銀座のマクドナルドで相席となり、お互い軽く身の上話をした後、そのまま去っていくというやつだ。

当時アイスランドという国をよく知らなかったので、色々調べた。極寒の地だが、火山があり温泉も有名だと言う。福祉国家で女性の社会進出が著しい。

極寒に住む人はお互いに助け合わないといけないし、また常に頭を働かせて生きる工夫をする必要がある。1人でボサーとしていたら、あっという間に凍死か餓死してしまうのだから。北欧の国々が福祉国家になったのもうなづける。

またアイスランドはインターネットの普及率も世界一だと言う(3年前に聞いた話だが)。そして北欧神話も生きている。先端を行きながらも、どこかプリミティブな国。

私の好きな歌手ビヨークは、まさにアイスランドを体現しているアーティストだ。彼女の地の底から吠えるような声、荒涼たる森や大地を思い起こすメロディ、そして緻密でよく計算された音。服装などはダサいが、そんな無頓着なところもかわいい。

昨年アテネオリンピックで、ビヨークが出て歌った時はびっくりしたが、とても嬉しかった。センスあるじゃんアテネオリンピック委員会。

 たぶん生涯行くことがないだろう国アイスランド。だから思う存分想像して楽しむことが出来るのだ。

 

   

 
ヒドゥン・プレイス / ビョーク

昔、まだ中国で原爆実験が盛んに行われていた頃、実験のあった日は、雨に濡れてはいけないとよく言われた。理由は、雨の中に放射能が含まれているので濡れると頭が禿げるというのである。夕日偏西風に吹かれて死の灰が飛んでくるさまを、幼い私は想像しては恐怖した。

さて、私は“グリーン”な人間である。車には乗らないし、クーラーや暖房もあまり使わない。節水のため風呂の残り湯などまめに利用するし、庭では草花を多く育てている。

私は思うのである。アメリカや日本やヨーロッパ諸国の一部豊かな国が膨大な二酸化炭素を排出しても、その被害をこうむるのはこれらの国だけではない。大自然は冷酷なほど平等である。電気など見たこともない貧しい国にも、地球温暖化による大雨や旱魃などの異常気象は容赦なくやってくる。

食うや食わずの生活をしているならともかく、文化的な生活を営んでいる人間は、地球環境を考える義務があると思う。

ただこの度の「京都議定書」には首をかしげる。今月16日に発効され、08〜12年までに90年比6%の温室効果ガス削減をしなければならないのだが、もう03年の時点で8パーセントも排出量は増えている。つまり14パーセント削減しなければならないという。常識で考えてこれは無理な数字である。

私の住むK市は昔は公害の町で有名だった。煤煙が空をおおい、工場の近くの小学校には空気清浄機が置かれ、ヘドロの海は人をす巻きにして沈めても絶対浮かんでこないとも言われた。

今空気はとてもきれいで、海は釣り客でにぎわっている。だが産業は衰退した。年々人口は減り、老人ばかりが増え、市の財政は厳しく、町を歩いていても売屋が目立ち、閑散としている。

本当に日本は京都議定書を守るつもりなのか。そのための対策はとったのか。かなりの犠牲が必要なのを自覚しているのか。それともこれは茶番か、絵に描いた餅か。

なんだがブッシュさんがとても誠実な人に見えてくる。

 

  
沈黙の春

猫三匹

最近当り前のように見かけるようになったジベタリアン、コンビニや駅のコンコースなどでたむろしてしゃがみ込み、ケータイでメールしたり飯食ったりしてるやつら。

私は彼らの姿に何か郷愁を感じる。低い目線から空を見上げる彼らの顔は例外なく呆けているが、傲慢さはない。どこかおだやかである。

江戸の終わりか明治の初めか、外国人が撮った日本の風俗写真を見たことがある。その中に、人々が道端にしゃがみ込んでキセルをふかしたり、ただぼんやりしているのが多くあった。仕事の合間に一服しているのか、それともほんとに暇なのかわからないが、昔の日本人はよくしゃがんでいたのではないだろうか。そしてわざわざ写真に撮っているということは、外国人にはとても珍しい風景だったからだろう。

明治以来、西洋の様式が流れ込み、日本人は椅子に腰掛け、ネクタイを締め背広を着、背筋を伸ばして歩くようになる。だがそんなアングロ・サクソンの様式を私ら日本人が真似て無理はなかったのだろうか。

きっとジベタリアンたちは先祖返りなのだ。もともと湿気の多い気候の日本では、ヨーロッパと違って長時間働くのは無理があるし、ネクタイも日本の風土には合わない。

まゆをひそめているおじさんたちも、たまにはネクタイを緩めて、ちょっとしゃがんでみては。今まで気づかなかった世界が見えてくるかもしれない。

  kareki

建物アイルランドをテーマ、および舞台にした映画には、渋くて見ごたえのあるものが多い。「マイ・レフトフット」や「マイケル・コリンズ」「父の祈りを」など。陰りのある映像もシックで落ち着いているし、役者たちも他のハリウッドとはちがって、街並みに自然に溶け込んでいる。

さて、ニール・ジョーダン監督の「クライング・ゲーム」という映画がある。公開時この作品には「未鑑賞の人に結末を語ってはいけない」という約束事があり話題になった。そして多くの評論家やジャーナリストはそれを守ってくれた。だから私は映画を観るのを楽しみにしていたのだ。

さてある日、毎日新聞のシネマコラムにこの「クライング・ゲーム」の写真が記載されてあった・・・。うっかり記事を読んでしまった自分が悪いのだが、まさかあんなに堂々とネタバレが書かれているなんて思ってもみなかった・・・。

きっとあのコラムを書いた評論家は、映画を見る人よりも、映画は見ないが薀蓄は語りたいと言う人のための記事を書いていたのだろう・・。

翌日、気を取り直し、映画館でこの作品を観たが、ネタバレされたにもかかわらず、とても素晴らしい内容だった。特に「かえるとサソリ」の話は印象深い(この話、昔どこかで聞いた事があるが、思い出せない)

もうすぐこの映画の完全版DVDが出るらしい。久しぶりに見てみたい。そして、あの寓話をもう1度味わいたい。

    


クライング・ゲーム DTSスペシャル・エディション

マテリアルガール谷崎潤一郎の「痴人の愛」を初めて読んだのは高校生の時だった。当時は、ロリコン、フェチ、マゾなんて言葉を知らなかったから、この小説で繰り広げられる耽美な世界に「何じゃこりゃ?」と思いつつも夢中になったものだ。

それにしても大正時代は、普通の勤め人が、15歳の少女を住み込みの女中として堂々と雇うことができ、それに対して世間から白い目で見られることもなかったのだ。まさにロリ垂涎の世界である。平凡な28歳の電気技師である河合はナオミと出合って人生が変わる。

15歳の少女を相手に活動写真の真似をしたり、お風呂に入れてあげたり、勉強を見てあげたり、さぞ楽しかったことだろう。彼女の方も、勉強でおこられると「河合チェンチェイ、堪忍して頂戴な」と甘えたりして、ツボは心得ている。

思うに、これだけ肉体だけ、外見だけ愛する男も珍しい。人間性なんていっさい考えていないのだ。変な言い方だが、彼女を“物質”としてみている。最初のうち、一生懸命勉強をさせるのも、人前で見せびらかしたいため。俺はこんな美人で教養のある女を連れているということを。

子供は親の言うことはきかないが親の真似はする。ナオミは恐ろしいモンスターとなったが、それはすべて親である河合の姿を反映しているのだ。

だれかナオミを真顔で叱ってくれる人はいないのか。男を自由にもてあそぶ彼女は、実はとても不幸な女だと思う。

    

 
痴人の愛

D−SITE最近、「D−SIDE」というアイルランド出身の若い男性グループのCDをよく聴く。若者らしく爽やかで良い感じの楽曲だ。

アイルランド出身のアーティストで思い浮かべるのが、まずU2、シンニード・オコナーやエンヤなどだろう。いずれも素晴らしい才能の持ち主だが、ややメッセージ性が強すぎたり、いかにもアイルランドの風土や歴史をしょっているみたいで少々濃すぎる気もする。

その点、D−SIDEは、ブルーやバック・ストリート・ボーイズのように、素直に楽しむことが出来る(ミーハーもちょっと入っているが)

アイルランドという国に以前から興味を持っていた。「シーザーも来なかった島」などと言われ、古代ギリシャ・ローマといったヨーロッパの基調からはずれた独特のケルト文化、小人や妖精、そしてカトリック。アイルランド人の殆どであるカトリック信者は、長い間、英国から厳しい弾圧を受け、経済的にも、また文化的にも最低の生活を強いられていた。

それにもかかわらずアイルランドは、数多くの偉大な文学者を輩出している。彼らの言語能力と想像力は、はかりしれないものがある。はかりしれなくて、実はさっぱり分からない。ジョイスの「ユリシーズ」を何度か目を通したことがあるが、頭が痛くなってくる。やはり当地に生まれ育った人か、歴史的素養のある人しか理解できない文学なのか・・・。

ドラマティックな歴史を持つせいか、アイルランドの音楽や文学と言うとすぐ深読みするきらいがある。でもD−SIDEにしても、ごく今風の若者だ。もっと気楽にアイルランドの文化を楽しんでみたい。「ユリシーズ」はまあ特別と言うことで。

    


ユリシーズのダブリン

薔薇はてしなき議論の後の

冷めたるココアのひと匙を啜りて、

そのうすきにがき舌触りに

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。(石川啄木「ココアのひと匙」より)

今、チョコレート職人を「ショコラティエ」と呼ぶそうな。フランスのカリスマショコラティエが来日して、某デパートにファンで殺到したという話も聞く。ちなみに洋菓子職人はパティシエだと。プププ。

何か不味そうじゃないか外来語にしたら。菓子職人チョコ職人でいいじゃん。

辻静雄さんが著作「フランス料理の手帖」の中で敬愛している、フランスの菓子職人トローニャ爺さん。彼はどんなに有名になりエリザベス女王やヴァチカンの法王が注文するようになっても、相変わらず狭い店の中で、チョコでべったりよごれた前掛けをしてコツコツ仕事をしている。

彼のことを日本人が“ショコラティエ”などと呼んではいけない。「チョコレート職人」である。何でもかんでも外来語にすればいいもんじゃない。

とまあ、年寄りの繰言はここまでにしておこう。言葉は世の流れによって変化していくものだ。外来語が求められ昔の日本語が淘汰されるのも、ごく自然の流れなのだ。確か金田一晴彦先生もそのような事を言っておられた。

ただ思うことだが、コンピュータ用語でさまざまな英語が使われる中、websiteのwebmasterだけはいまだに「管理人」と呼ばれている。「私がこのHPのウェブマスターです」とか「マネージャーです」と述べているHPを見たことがない。みんな「管理人」だ。HPの来訪者も親しみを込めて「管理人さん」と呼ぶ。

「管理人」という言葉は、例えば農業を営んでいる人が「私は百姓で」とか作家が「私は物書きで」と言うような、謙遜と誇りが入り混じった、とても良い呼び名だと思う。これから先コンピュータがどんなに進歩しようとも「管理人さん」という呼称は消えてほしくない。

「管理人さん」という言葉が愛される理由としては、もう1つ高橋留美子さんの「めぞん一刻」の影響もあるのではないか。

この漫画で思春期、青春期をおくった世代が、今時代の中枢にいる。将来は分からないが、この世代がいる限り「管理人さん」という呼び名は消えないだろう。そう願っている。

    


めぞん一刻 (1)

こねこ

私の友人が以前、野うさぎを自分でさばいて食ったそうだ。正確には飼っていた猫が、山で野うさぎを仕留め(ハンターか!)戦利品として家に持ち帰ったものを料理したらしい。高校時代ワンダーフォーゲル部(川口探検隊みたいなもん?)にいた彼女はかなりワイルドな女で、肉は野生の木の実などを食っているせいか、嫌な臭いもなくとても美味しかったとの感想。

うさぎと言えば、「指輪物語」フリークであれば、まず庭師サムの作る「香り草入り兎肉シチュー」を思い出すのではないだろうか。一度は作ってみたいと思うが、うさぎの肉などなかなか手に入らない。

さて、「指輪物語」には、おいしそうな食べ物が数多く登場する。どれも簡素だが清潔で作り手の愛情溢れるものばかりだ。マゴットじいさんの茸とベーコン、トム・ボンバディル家の蜂蜜やベリー。そして洞穴でファラミアがもてなしてくれた、葡萄酒とパン、チーズ、塩漬け肉と果実。

またホビットたちの飲むビールのうまそうなこと!天然100パーセントのビールはこくがあって飲みごたえありそうだ。

1つの指輪の重荷を背負ったホビットのフロドは子供の頃、きのこ泥棒をしたくらいの食いしん坊だった。それがこの辛い旅で日に日にやつれていき、食べ物の味さえ忘れていくのが悲しかった。

さて明日は寒そうだ。うさぎはちょっと手に入らないから、きのこのシチューでも作ろうか。

   


新版 指輪物語〈1〉/旅の仲間〈上〉

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