ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2005年04月

0283昨日4月29日は中原中也の誕生日だった、忘れていた。中原中也記念館に行って、ついでにお墓参りにでも行こうかな。

さて、中也と言うとミーハーの私はどうしても恋人泰子と友人小林秀雄との三角関係を思い出してしまう。

東京育ちでイケメンの小林にとって、地方出身で世間知らずの中也の恋人を寝取るなんて赤子の手をひねるようなものだったろう。この経緯について小林は後に「中原中也の思い出」の中で述べているが、どうも文章が平坦で彼らしい深みが感じられない。さすが論文の名手でも、自分の事となると筆力が落ちてしまうのだろうか。

考えてみると、昔は谷崎潤一郎と佐藤春夫の妻譲渡事件とか、太宰治のスキャンダルとか作家の私生活での事件が多かったのに、最近はとんと聞かない。賢いのか、それとも激しい熱情は物語の中だけと割り切っているのか。

たぶん皆さん賢明なんだろう。でも、あの小林秀雄が自分の略奪愛について、まともな文が書けなかったということ自体、逆に彼の苦悩を雄弁に物語っているような気がする。

私生活を売り物にする必要はないが、情熱ゆえの愚かな行動は作家だけに赦される恩典だと私は思っているのだが。


考えるヒント

279急激に気温が上がったせいが、普段はゴンダワラのような(どんなだ?)丈夫なだけが取り柄の私なのに、食欲がなく体がだるい。

まぁ私はともかく、年をとった両親はもっとしんどいだろう。昨日あまりの暑さに老父母のためにクーラーをつけようとしたが上手く作動しない。電器屋に連絡したところ、今忙しくて修理に来れるのは連休明けになるという。

また、日焼けも気になり、近くのドラッグストアに立ち寄るが、なんとUVコーナーが作られておらず、日焼け止めの種類も少なくて結局買わずに帰った。

急激な暑さに対して準備不足なのは、電器屋や化粧品屋だけでなく人間の体もそうだ。

旅行やレジャーに行かれる方も家でゴロゴロのあなたも、そして私も、まだ準備不足であることを忘れずに。無理をしないで体調に気をつけて下さいね。夏はまだ始まったばかりなのだ。

じゃ今からソーメン食べて昼寝します。

水浴び

すっかり初夏の陽気になり、朝、顔を洗う水が心地よい。

都心の方の水道はまずくて飲めたもんじゃないと聞く。飲料水をわざわざ買っている人も多いらしいが、私の住む地域の水道はとてもおいしい。0281水源に近いせいだろうか、味もすっきりとしてるし、切れるように冷たい。夏は蛇口にびっしり水滴がついているほどだ。

だから冬は辛いが、暖かくなると毎日の水仕事がとても愉しい。

もともと食器を洗ったりお風呂の掃除といった単純作業は大好きなのだが、それは水遊びの要素が含まれているからだろう。

太陽の下で、何の気がねなく水を使える幸せを思う。梅雨も台風もそう思うと苦にならない。

今年の夏は、風呂の残り湯をつかった打ち水を実行してみよう。少しは地球が冷えるかな。

神宮2初めて「血友病」を知ったのは、大西赤人さんの短編集「善人は若死にをする」が世に出た時だ。

若干16歳の天才少年はまた血友病患者でもあったのだ。

出血がなかなか止まらず、内出血もしやすくかなりの苦痛も伴う。男性だけに症状が表れ、完治の見込みはない・・・・。

彼は県立の進学校を受験し「優に合格圏内」だったが、病気が原因でとうとう入学は叶わなかった。

もちろん今も大西赤人さんは父上の巨人氏と共に、熱心な執筆活動をしておられる。ぜひ処女作のタイトル名を裏切るくらい元気で末永く活躍してほしい。

さて、安部英氏が亡くなった。88歳だそうだ。薬害エイズ事件で過失致死罪に問われ一審は無罪、その後認知症と診断され、公判停止になっていた。

死者に鞭打つようなことは言っちゃいけないと思うけど、安部センセー、いいのそれで?こんな後味の悪い思いで、こんなに晩節を汚して・・・・。

血友病患者は、血液製剤なしでは生きられない。その命綱を握っている安部先生はやがて自分は神だと勘違いしたのだろうか。

氏が心から過ちを認め、残りの人生を贖罪の日々に過ごしていたのなら、死んでいった患者たちもきっと許してくれたと思う。だって安部先生は日本一の血友病の先生であり、彼らにとって希望の星だったのだから・・・・・。

 

 

 

0289東京近隣の県は何故か不遇である。特に埼玉県や茨城県はメディアにおいて、「中途半端な田舎」「ダサい」と酷評されることが多い。

いっそ九州や東北といった本物の田舎は「地方文化圏」として敬意を払われているのに、その差は一体なんだ?ムリすれば都心に遠距離通勤ができる、ビミョーな距離のせいか。

さて、「下妻物語」は茨城県下妻を舞台にした青春映画である。

桃子役の深田恭子ちゃんがすごい。大根なのにベテラン女優の風格がある。彼女が演ずるのは、ヤンキーの国ジャージランドに生まれ、下っ端極道を父として持ちながら、なぜかロココ調ロリータファッションに魅せられている少女だ。

そして今どき暴走族レディス、イチ子役の土屋アンナ。日本で一番ロリータファッションが似合うモデルの彼女が、妙に小市民的なヤンキーを好演している。

・・・見終わった後やられたな・・と思った。斬新でポップな映像の中に、変わらない友情の姿が垣間見られるのだ。たくさんの友人を持つより、ひとりの友と深く心を通わせる方が人生愉しいかもしれない。

それにしても、郊外の町にイオングループ、よく似合う。

 

 
下妻物語 スタンダード・エディション

以前、大阪朝日放送の0280「探偵!ナイトスクープ」を見ていた時、視聴者からこんな探偵依頼があった。

それはおばあさんからで、昔、家が火事になったとき、隣に住む大学生の男の子が、おばあさんを背おって助けてくれた。命の恩人のその学生に会って、お礼がしたい、というもの。

たぶん就職して、もう社会人になっていると思われるその男性の行方を、タレントらが探す。そしてついに見つけた。何と・・・・。

その大学生は、消防隊員になっていた。

彼の話によると、おばあさんを背負った時の命の重みが、生き方を決めたらしい。

その時の局長は神岡龍太郎さんだったが、もし今の西田局長だったら、号泣間違いなしだろうな。

 

この度の悲しい脱線事故。ただただ亡くなった方のご冥福と傷を負った方の回復を祈るばかりである。

そして黙々と救出活動を続ける消防隊の人たち。

どうか少しでも彼らの出番が少ない世の中になりますように。

 

 

 

松林2新緑の美しい季節。最近なるべく時間を作っては緑の中を散歩するようにしている。あとひと月もすれば紫外線も強くなり、とてものんびり歩き回るなんて出来ないから、今のうちにじゅうぶん英気を養うわけだ。

そんな時必ず文庫本を持っていく。太陽の下、のんびりと本を読むのは至福のひと時だ。

この前は海を眺めながらフランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」を何年かぶりで読み返した。そして、やはり泣いた。

いつも思うのだが、太陽は時々人を狂わせる。青い空と光を浴びていると、得たいの知れない万能感が溢れてきて、妙に気持ちがハイになる。

17歳の少女、セシルはすべてを支配していた。夏、若さと美貌、父の愛情、そして新しい恋人。それを邪魔するものは許せなかった。彼女は自分の心も傷つけながら、恐ろしい計画をたてる・・・。

 

ひとつ言える事、太陽の下で、重要な計画を建ててはいけない。

 

 
悲しみよこんにちは

パンジーと私は寛容な人間である。たとえば映画館でおしゃべりしてるおばさんたちや、メールをチカチカやってる小僧を見かけても腹が立ったりはしない。

だいたい1000円かそこいらのお金で、完璧な環境を期待する方が贅沢だと思うし、一旦物語りの世界にのめり込んじゃえば、周りのざわざわなんて気にしない。第一、今の映画館は私にとって夢のような環境なのだ。

昔、一度だけだが痴漢に遭遇した事がある。暗がりの中で思わず敵の腕をひねり上げたところ、相手はあわてて逃げた。その時私は果敢にも逃げる犯人を追いかけていった。

キッチリ警察なりに突き出したかったのだが、相手の逃げ足の方が速かった、残念。

その映画館は、老朽が激しくて不潔、全体にトイレ臭いし、もぎり嬢(受付のおばさん)は愛想が悪いし館内が暗くなればもう痴漢の温床であった。(当時はどこの映画館もそうだった)

だから女性がひとりで気軽に映画館に入るなんて、夢のまた夢だったわけだ。

いま映画館はシネコンプレックス(複合施設)が主流で、設備は新しくて清潔、機能的で快適な空間となった。老朽化した古い映画館はドンドン取り壊されていく。とても良い事だ、もうダニがつきそうな椅子には座りたくない。

昔の映画館主たち、無愛想なもぎりのおばさんたちは、今、シネコンの隆盛をどう見ているだろうか・・・。

   

 

 
ポップコーンはいかがですか?

花壇と今夜未明には、衆議院福岡2区と宮城2区の補欠選挙の結果がでるだろう。

特に福岡2区の選挙民はお気の毒だ。学歴詐欺というトホホな理由でやめた民主党議員のあと、立候補中最有力なのが、えげつない女性スキャンダルで騒がれた自民党の方、その他だれが当選しても非難されそうなメンツばかり。棄権すれば投票率が悪いと文句を言われる。選挙民にこんな肩身の狭い思いをさせる政治家なんて許せない。

福岡2区の方の中には、地震で被害に遭われた人も多いだろう。災害や有事の際、やはり中央とのパイプがある人を頼るのは、いたしかたない事だ。

だれが当選しようと選挙民を非難するのはやめよう。また投票率の悪さをあげつらうのもやめよう。そして当選した人はお気楽に万歳をしたり達磨に目を入れたりせず、選挙民の苦渋の選択を深く心に刻んでほしいものだ。

 

0259以前の職場での出来事。ある夏の暑い日、会社に一本の電話があった。用件は「実は脳性まひの青年が車椅子で西日本横断の旅をしている。経費節約のため一晩そちらの事務所を寝泊り場所として貸していただけないでしょうか」との事。

検討した末OKということで、彼を迎え入れることにした。介助の人が1人か2人はいると思っていたのだが、やってきた彼らをみてびっくり。男女まぜて6〜7人のボランティアが介助として付いて来ているのだ。

障害者の介助をしたことのない私が言うのもあれだが、そんなにたくさんの人手が必要だろうか。食事、トイレ、暑いからお風呂にも入りたいし着替えもあるだろう。でもそれにしても多すぎる。

車椅子の青年と話しをしてみたかったが、ボランティアの若者たちが、ずっと取り囲んでいたので結局何もしゃべれなかった。

一般の人は、彼らをどう見ただろうか。「障害者のボランティアってなんか大変そう」「あんなにたくさんの人に迷惑かけて。家でじっとしておけばいいものを」・・・・・。冷酷かもしれないが、市井の意見なんてそんなものだ。

もちろん彼らがどんな夏を過ごすかは彼らの自由だ。介護の体験をするのも意義がある事だろう。だが私の目には、ボランティアの人の方が、障害者にぶら下がっているように感じた。

今読んでいる神谷美恵子著、「生きがいについて」に、こんな文章がある。

愛に生きるひとは、相手に感謝されようとしまいと、相手の生のために自分が必要とされていることを感じるときに、生きているはりあいを強く感じる。〜ひとは自分が世話になったひとよりも世話をしてやったひとのほうをこころよく思うものだ〜

私が今までボランティア活動をした事がないのは、一つには、自分の生きがい作りのために彼らを利用しているのではないか、という思いが頭を離れないからである。それよりはバリバリ働いて税金や社会保険料をキッチリ納める方が利に適っている気がする。

こんなにひねくれていては、近い将来ボランティアのお世話になる日が来た時、感謝の気持ちで素直に彼らに身をゆだねることが出来るだろうか。不安だ。

 

  

 


生きがいについて

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