ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2006年03月

最近、欠かさず見ていたテレビ番組に、NHK教育「知るを楽しむ」の『脳を鍛える』というのがある。番組の進行は、あの有名な東北大学教授 川島隆太氏だ。
空これ以上の脳の低下を抑えるべく、切実な気持ちで見、実にタメになったと思うのだが、一つどうしても受け入れられないのがあった。

番組の中で、ある老人ホームを紹介し、そこで認知症のお年寄りに小学校一年生用のドリルをさせているのだ。なんでも簡単な計算は、脳の前頭前野球を活発にさせ、認知症の予防、あるいは悪化を防ぐらしい。

でも、でも、3+4とか2+2といった計算を、まるで自分の孫のような介護士からやらされているお年寄り・・・・・。

川島教授は「老人たちの症状が緩和されたと思う」と胸をはっていたが、何だかなぁ。

ハッキリ言って私はイヤだ。年を取り晩年になって、おぞましい学習ドリルをやるなんて。
子供の頃、つまらない授業にうんざりしながら、「早く大人になってこんなやな事から開放されたい!」と思っていたのに、死ぬ近くになってまた同じ事させられるなんてたまんない。

もちろん認知症の老人介護をする人は大変だろうし、症状を緩和したいと思ってやっている事はわかってはいるが。
そのうち、「百ます計算」なんかも取り入れだしたらどうしよう。果たしてそこに老人への尊厳は、死への尊厳はあるのだろうか。

さて、先日『メゾン・ド・ヒミコ』という日本映画をみた。ゲイの人だけの老人ホームを作った男と彼を取り巻く人たちの、ちょっと情けなくて、でも心に染み入る佳作だ。

最初はゲイの話と思ったが、突き詰めると老人問題が大きなテーマになっている。

自分と同じ趣味嗜好を持つ人たちと、人生最後の日々を送るのはさぞ楽しい事だろう。特に彼らのように家族や周囲から浮いた人生を歩んで来た人たちにとっては。

だがそんな楽園が実務的にやっていくのは厳しい。館長役のオダギリジョーが、金持ちパトロンであるジジィの誘いに乗り、それこそ体を売ってしのごうとしているような経営状態なのである。(その割には、老人ホーム内のインテリアがえらい豪華だったが)

だが、少なくともこの「メゾン・ド・ヒミコ」では、認知症の予防のためドリルをやらせる、という発想は全くないだろう。

自分はどういう老後を過ごすのか、自分だけの「メゾン・ド・ヒミコ」を見つける努力をそろそろ始めないといけない。

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映画『ホテル・ルワンダ」を、やっと観た。観に行かねば、と思いつつも、決心がつかず、ずるずる伸ばしていたが、今日、重い腰を上げて映画館に向ったのだ。

気が重かった理由として、1994年に見た、ルワンダ大虐殺の写真や映像のあまりの残酷さが心に残っていたかもしれない。

手、足、胴体をナタでバラバラにされ、川に捨てられた死体の山。川は血で真赤に染まり、まさに血の池地獄。
ツチ族の人たちは、フツ族の民兵に金を渡し、どうかナタではなく銃で殺してくれと哀願したという・・・・。

百万近くの人間が虐殺されたこの事件に、怒りよりも恐怖を覚えた私は、「遠いアフリカの地で起きた、何かおぞましい事件」ということで、封印してしまった。はい、自分はヘタレです。
私の住む地元では、ルワンダ救済のNGO団体が活動を始めていたが、自分はそれ以上ルワンダの事を知ろうともしなかった。

映画の中で、テレビカメラマンがいみじくも語っている『虐殺の映像を見ても人々は、「まぁ怖いわね」と言うだけでそのままディナーを続ける』

まさに自分がそうだったのだ。

さて、映画を見ている最中、この登場人物たちが、あの残酷な殺され方をするのか〜と思いドキドキしていたが、リアルな残虐シーンは押さえられていてひとまずホッとした。

主役のポールを演じたドン・チードルは、『クラッシュ』で、中流黒人の悲哀をかもし出していたが、この作品でも、「中流以上だが、しょせん黒人」という複雑なスタンスを見事に現していた。

どんなに仕事が出来て優秀でも、せいぜい支配人止まり、オーナーにはなれない。普段は支配階級と同じぜいたくをしていても、結局、支配層は、彼を同等として見てはいなかったのだ。

だがこのポールの交渉力はすごい。ある時は賄賂を使い、誉めたり、おだてたり、はったりをかましたり、知恵と話術でひたすら危険を乗り切っている。
平時ならば、口八丁のやな男に見えないでもないが、危機の最中にあっては彼の話術だけが唯一の武器なのだ。

ところで、特に印象に残ったのに、国連軍が、ルワンダ国民を見捨て、外国人だけを退去させるシーンがある。

白人だけが退去のバスに乗るのを、じっと見つめている多くのルワンダの女や子供たち。
男性のテレビカメラマンが、地元で親しくなった女性の「助けて・・」の声を背に「自分が恥ずかしい・・・」とうつむきながら雨の中バスに向う。そんな彼に律儀に傘を差し出すホテルマン。
助かった外国人たちが、申し訳なさそうにうなだれてバスで去っていくシーンは、静かだが、その冷酷さには胸が締め付けられた。

さて、ルワンダでは元々フツ族やツチ族などなく、第一次大戦後、ベルギー人が、外見で、てきとーに決めたものらしい。お互いを敵対視させるために。
例えれば、日本を植民地にしたアメリカが、日本人の顔の造作だけで、弥生族、縄文族と分けたようなものか。

人間って愚かだ。つか自分もその1人だが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今から7〜8年前だったろうか、福岡ドームに日米野球を観に行ったことがある。まだメジャーに行く前のイチローや松井秀喜、メジャー側は、マグワイアとホームラン競争を演じた、サミー・ソーサなど木出場し、楽しかったが、その中で印象に残るシーンがあった。

松井秀喜が初めて打席に立った時、メジャーの外野が、ずいぶん前身守備だったのだ。しかも動きも緩慢でへらへら笑っている。

「なんかアメリカ、日本をなめきっているよねー」と友人としゃべっていたら、「カーン」と乾いた音が響き、松井の打った球が、広いドームに大きな弧を描いた。それからアメリカチームのハートに火がついた。

だが、結局この試合は、イチローも盗塁などで活躍し、日本が快勝した。
何より、メジャー側が日本に対して真剣に勝負するようになったのが、心に残っている。

さて、昨日の朝、何気にテレビをつけたらメジャー・リーグをやっている。
「あれ、何でこの時期に・・・・」と思ってよく見たら、ワールド・ベースボール・クラシックだった。
それほどWBCに関心がなかった私だが、見ていると面白く、とうとう朝の家事も忘れて見入ってしまった。やはり日の丸を背負った試合は、緊張感がある。

疑惑の判定はともかく、久しぶりに野球の楽しさを味わった。日本もアメリカも真摯でひた向きで、まるで高校野球のようだった。

思うに、試合の雰囲気を変えたのはイチローの先頭ホームランであろう。
シュアなバッティングの彼がホームランを狙ったのは、日本のチームメイトに対する「おらおら、勝ちに行ぜ!」という無言のメッセージだったのだが、そのメッセージは、日本チーム以上に、アメリカチームに効いてしまったようだ。

確かに後味の良い試合ではなかったが、これだけメジャー側をあわてさせた事に関しては、溜飲を下げてもいいのでは。

出来れば、再びアメリカと試合が出来ますように。青くさい高校野球のようなプレーをまた見てみたい。

 

 

 

 

 

 

 


 

先日、門司の出光美術館にて『古唐津百選』を観に行った。茶碗についての見識は持ち合わせていない私だが、古唐津の、鄙びたアンコールワット唐津焼き土の香がしそうな味わいには心ひかれる。

このたびの展覧会では、西日本で最高の古唐津コレクター、田中丸家の逸品も、多く出展されている。

田中丸家は、地元の老舗百貨店「玉屋」の創業家だが、現在、百貨店の方は経営不振で、閉店の憂き目にあっている。

「おいおい、肝心のデパート潰しておいて、コレクションかよ」と、意地悪な突っ込みを入れつつも、名品の数々に心が和む。

古唐津の器に、佐賀呼子のイカの薄作りや玄界灘の魚の煮つけを盛ったらさぞ映えることだろう。そして旨い日本酒を酌む。

唐津焼を見ると、私はなぜか食欲がわいてくる。

さて、翌日、地元の百貨店で催されていた『大アンコールワット展』をのぞいてみる。

会場に一歩足を踏み入れた瞬間、胸がときめいた。
ヒンドゥー教の神々や仏像の持つ、肉体の若々しさに。
たくましさとしなやかさをあわせ持つ体は、美しい曲線を描き、その上に乗った顔は彫りが深く、神秘的な微笑をたたえている。

日本の仏閣にある仏像の、悟り済ましたような表情ではなく、素直に育った高貴な青年の持つ、ごく自然な慈愛のほほえみなのだ。

こんな表情で生き、そして死んでいけたら・・・と思う。

そして、美しい笑みをたたえたクメールの神々は、カンボジアの地における苦難の日々を、どんな思いで、見続けていたのだろうか。

 

 


 

スペインのペドロ・アルモドバルは、妙に気になる映画監督だ。「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥー・ハー」などの作品がある。原色を大胆に使った独特の色彩感覚、斬新な映像、そして登場する人たちの、まあ濃い事。

好き嫌いがハッキリ分かれる人で、正直、気持ち悪い作品もあったが、それでもついつい見たくなるのは、こわいもの見たさもあるのかな。

さて、監督の「バッド・エデュケーション」を観た。物語の芯は、神学校の寄宿生であった2人の少年の秘めた愛。そして神父による少年への性的虐待だ。残酷だが、ありがちな話だな、と思っていたが、その後16年の年月が流れ、物語は意外な方向へ螺旋状にどんどん展開していく。

2人の少年のうち、1人は新進気鋭の映画監督になり、虐待された方の少年は、見るも無残な変貌をとげていた。だが、物語がラストに進むにつれ、ハタと気がつく。この2人、心は変っちゃいないと。
映画監督になった方は、妙に取り澄まして気取った奴だし、片方は麻薬中毒で、祖母の年金をくすね取るようなダメ人間になっていたが、それでも純粋な愛は残っている。また、あの元凶の神父に対しても尊敬の念は忘れていない。

だが、この2人はまたしても、神父とある若者によって、悲劇を味わう事になるのだが、この若者が曲者なのだ。

こいつは、男同士だろうがなんだろうが、人の純粋な愛を、自分の野望のためにどんどん利用し、しかもその醜さに、自身まったく気づいていないという、たちの悪い男で、ある意味エロ神父より罪深いと思われる。

そんな、さまざまな人たちの、醜さ、愛、哀れさなどが、アルモドバル監督の、過剰装飾とも言える映像の中、繰り広げられる。
お腹一杯になりそうだ・・・・。

さて蛇足だが、映画の中で、ガエル・ガルシア・ベルナル君が、パンツ一枚で、プールに飛び込むシーンがあるのだが、そのパンツがまた、お母さんがスーパーで3枚千円で買うような、白いブリーフなのだ。
白いブリーフってなんか見ていて目のやり場に困る。まだすっぽんぽんの方が冷静に見られるのに〜、と思う私は何なんだ。

 

 

 

 

 

 

 

『クラッシュ』という映画を観た。アメリカのロサンゼルスクラッシュに暮らす人々が繰り広げる、ほぼ1日のドラマである。そして物語はお互いが有機的に絡み合い、ほろ苦いラストへと収斂される。

そしてこの群像劇の中心は「差別」だ。

冒頭のシーン、追突した車から出てきた人が相手の車に向って「こいつはメキシコ人だから〜」と怒鳴っているのを見、ちょっとうなってしまった。映画だから話半分としても、日本で、あからさまに他の人種をののしる人がどれほどいるだろうか。少なくとも私はそんな経験はないし、たぶん死ぬまでないと思われる。

自己主張の強いアメリカにおける「差別感」は、日本のそれとはかなり異質のようだ。心して見なければ。

さて、誤解を恐れずに言えば、「差別」は、悪ではないと思う。異質なものに対して警戒するのはごく自然な人のいとなみだ。まったくボーダレスになったら、家の中にどんどん雨水が入り込んだくるわ、自分のものはわけわからなくなるわ、大変である。

もちろん「差別」でも、なんとなくあんな人たち嫌い〜、と言うような情緒的で、皮膚感覚的なものは、理性で駆逐しなければならないが。

厳重なドアであろうと、壊れた垣根であろうと、境界は必要である。

ただ、この物語は、「差別」と「銃」が結びついており、それが大きな悲劇を生んでいる。

「銃」がなくなったとき、きっとアメリカの街のあちこちで、天使の羽根が空を舞うことだろう(詳しくは映画を見てね)

 

 

 


 

 

 

 


 

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