ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2006年04月

学習障害(LD)という言葉が世間に認知されて久しい。005

他の人が簡単に出来る読み書きや算数が、どうしても出来ない。別に知能が低いわけではなく、潜在能力も持っているだろうに、勉強のスタート時点でつまずいてしまった彼らは、強い劣等感に苦しみながら子供時代を過ごす。
そんな辛い毎日の中で、その人の唯一のとりえが「美貌」だったら、イヤでもそれにしがみつくしかない。

『イン・ハー・シューズ』という映画で、キャメロン・ディアス扮するマギーは、そんな学習障害をかかえている。それにくわえて片付ける事が苦手な、いわゆる「片付けられない女」でもある。
計算や字を読むのが苦手な彼女は、簡単な仕事も出来ず、職を転々とせざるを得ない。

この映画は、よく「容姿は完璧だが男にだらしなく職を転々としている妹と、優秀な弁護士だが容姿にコンプレックスのある姉が云々・・・」と紹介されているが、トニー・コレット扮するお姉さん、意外と美人だし何やかんやいって結構男にもてる。第一素晴らしいキャリアを持っている。

そんなわけで私は、学歴やキャリアもなく美貌も衰えてきたマギーに、どうしても感情移入をしてしまう。

だから映画の後半、元大学教授の老人から「Aプラス、君は頭が良い」と誉められた時の、マギーの嬉しそうな表情は忘れられない。
きっと生まれて初めて「頭が良い」と誉められたのだろう。
その歓びは、やがてラストの美しい「詩」へとつながる。

コンプレックスが消えることはないだろう。でも、その苦しみを乗り越える勇気を持ったとき、きっと新しい人生が始まる。

イン・ハー・シューズ

 

 


 

014数年前から貧血気味で健康診断のたびに治療するよう言われていたのをしばらく放置していたが、ここ最近めまいや立ちくらみがひどく、さすがにこれはヤバイと思い、病院で検査を受けた。

結果、血液成分の数値が以上に低い。医者から、よく普通に生活できますねぇと感心されたが、比重の軽い血に体が慣れているせいで本人はあまり感じないのだ。

今造血剤を服用しているが、普段、薬を飲まない生活をしているせいか、錠剤を飲んで一時間もすると冷たい手足が温かくなって頬も赤みがさし、血のめぐりが良くなったような気がする。単純な体だ。

以前、ある人から、こぢろうさん色が白いねと誉められた事があるが、そのあと、後ろの景色が透けるような白さだねと追加で言われ、じゃあ私はだんだん透明になって消えて行くのかよと・・・。

元々自分は存在感のない人間だ。グループで旅行に行ってもなぜか私だけ写真に全然写ってなかったり、目の前にいるのに「こぢろうさん、どこいるの〜」と捜されたり。また私が前に立つと自動ドアが開かないということもしょっちゅうだ。

身長体重ともに日本女性の平均値なのに、なぜか自動ドアが微動だにせず、急いでいる時など焦りまくる。以前TV番組「探偵ナイトスクープ」でも自動ドアが開かない人が出ていたが、そういう体質(?)の人って、一定数いるのだろう。

自分としてはあまり目立つ事は苦手なので今のままで問題はないのだが、このまま透明人間になっていくのも何だか寂しい。

とりあえずは真面目に造血剤を飲んで、消滅する時期を延ばすことにしよう。


←特に意味なし

『プロデューサーズ』を見た。久々にアメリカンエンターテイメント!てな感じで、頭からっぽにして大いに楽しんできた。

それにしてもこの映画、シャレがきついというが、ずいぶん危ないネタマシューを使っているが、さすがユダヤ系のメル・ブルックスだからなせる技か。

ジョークの内容など、ちと分りにくいのもあったが、役者たちが芸達者のせいか、気にならずに堪能できた。特に会計士役のマシュー・ブロデリックが素晴らしい。

彼は大好きな俳優だ。80年代初主演した『フェリスはある朝突然に』は衝撃的だったし、ゲイの若い青年を演じた『トーチソングトリロジー』は名作だと思う。

だがここ最近、良い作品に恵まれていない。もちろんアメリカ国内では舞台等で活躍しているのだろうが、映画はさっぱりだ。理由としてアメリカ映画全体が、地味でシリアスな作品中心になってきたからだろうか。
今年アカデミー賞を取った『クラッシュ』や『ブロークバック・マウンテン』にしても、人間の内面を描いた地味な作品だ。

彼のようにコメディもできる才気溢れたタイプの役者には、冬の時代なのかもしれない。

だからこそ、このたび『プロデューサーズ』の彼の活躍はとても嬉しい。

そんなわけで、今から映画を見る方へ、必ずエンドロール最後まで見てね。


 

お堀
最近BS放送で、「懐かしドラマシリーズ」が始まった。「ローハイド」「コンバット」「逃亡者」「アイ・ラブ・ルーシー」というタイトルに、思わずノスタル汁があふれ、時間を調整してなるべく観るようにしている。

先日は「ローハイド」を楽しんだ。あの有名すぎるテーマ曲にもしびれたが、何といっても若き日のクリント・イーストウッドの姿を拝めたこと。今、巨匠となった彼からは想像できない、やんちゃで実直な若者を演じている。
幼い頃、白黒テレビで見たヒーローが、今だに第一線で活躍しているのは感慨深い。

さて、テレビで「ローハイド」を見た同じ日の夜、今度はDVDで「ミリオンダラー・ベイビー」を鑑賞する。

「ミリオン〜」の方は、ストーリィーを知らなかったので、物語の意外な展開にも驚いたが、それにもまして、クリント・イーストウッドのあまりの老けように唖然とした。

顔の縦横に刻まれたしわ、骨ばった顔、いぶし銀どころではない、あれはまさしく老醜だろう。彼を見ただけで私は「この物語、少なくともハッピーエンドじゃないな」と思ったもの。

「ローハイド」後の、マカロニ・ウエスタンや「ダーティハリー」シリーズでの勇姿が目に焼きついている私は願う。「クリント・イーストウッドよ、もうスクリーンには出ないでくれ」

俳優にとって容姿は重要だ。老いた人が主役を張るのは無理がある。かといって彼に“枯れた老人役”は似合わない。

これからは監督業だけに専念してもらいたいな、と、アカデミー受賞作品を観ながら、はからずも考えてしまった春の夜であった。

ミリオンダラー・ベイビー

 

 

 

 

 

 

映画「ブロークバック・マウンテン」を観た。花まず大自然の美しさに目を見張る。雪をいただいた山並み、限りなく広がる牧草地、おびただしい羊たちの群れ。

主人公の2人は、テンガロンハットをかぶり馬に乗る、絵に描いたようなカウボーイだ。まるでマルボロのCMから抜け出てきたようないでたちで、くわえ煙草で羊を追い、テントを張り、焚き火で缶詰の豆を温める。

これでもか、というほどのカウボーイ生活。アウトドア派ではない私でさえ、体験したくなるようなナチュラルライフだ。

さて、欲求不満になった羊飼いが、つい牝羊とやっちゃった、という話を聞いた事がある。彼らが関係を持ったのも、羊とやる感じで、つい目の前の男と、てな感じではないだろうか。
それで結構気持ちよかったものだから、「これは、俺たちだけの秘密だよ」って、まるで小学生の子供たちが、自分らの秘密基地に、大切な宝物(貝殻とかきれいな石とか)を隠すような具合だ。

そう、この2人の男は、永遠に小学生の男の子のままなんだ。世俗を離れ、大自然の中で無心にはしゃぎまわり、男同士の友情をはぐくめる場所。それが出来るのはブロークバック・マウンテンだけだ。

いざとなれば、同性愛に寛大な西海岸で暮らすことだって出来たのに、彼らはあくまでこの西部の田舎にこだわり、人目を気にしながらもこの地を離れなかった。

男たちの深い友情(性的関係があってもなくても)の前に、女は無力だ。はからずも、この作品は、その事実を再認識させてくれた。つか大半の賢明な妻たちは、それくらいのこと重々承知だと思うが。

ブロークバック・マウンテン

 

 


 

これ以上はない、お花見びよりも束の間、桜昨日より雨が降り続いている。

4年と11ヶ月と2日、雨は降りつづいた。

先日、G・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読み終えた。今、この物語のフレーズの一つ一つが、頭の中をぐるぐる廻っている。

すべて、私ごときの考える想定外に進んでいくストーリィー、灰汁の強い登場人物たち、シュールでありながらリアリティ溢れる描写。

自分の乏しい読書体験から鑑みても、こんな作品は初めてのような、でも妙な既視感もある。ファンタジーでもない、敢えて言えば、安部公房の不条理、中上健次の血の絆のような。

同じ名前が繰り返し使われているが、そのうち名前なぞ、どうでも良くなってきた。皆同じ、ブエンディア一族なのだから。

この一族、女たちはたくましいが、男はみな孤独にさいなまれている。軍隊や戦争、発明や金細工すべてが、孤独をいやす手なぐさみに過ぎないのだ。

一番惹かれた人物は、この家系最後の男だ。あくの強い最初の頃の人物たちとは違って物静かだが、一族すべての特長を収斂している。

私は今回、この稀有な物語の表面をさらっと流しただけに過ぎない。いつか彼らの本当の孤独を理解する日が来るだろうか。

〜こうして10年間の旱魃が始まった。

百年の孤独

 

 


 

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