ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2006年07月

最近ハマっているミュージシャンがいる。
イギリス出身のジェイムス・ブラントだ。

初めてその歌を聞いたときから、その声の透明さ、切なさが胸をついて離れなかったが、聞き込んでいくうちに不思議な歌詞の世界にも魅了された。

「you're beautiful」という曲、テレビのCMやドラマの主題歌で使われているから、ご存知の方も多いと思う。

初め、単純なラブソングかと思っていたが、実はこれPVでも分るように自殺の歌なのだ。

自殺に向う途中、電車の中で、好きだった女の子が彼氏と一緒にいるのを見かける。僕を見て微笑んでくれた彼女に、ただひたすら「君は美しい、君は美しい」と、称える。もう二度と会うことはないし、彼女が僕のことなど気にもかけていないと分っていても・・・。

何とも切ない世界ではないか。死を目前にして、もはや嫉妬や欲望から自由になった男の不思議な透き通った魂がそこにある。

この頼りなげなたたずまいのミュージシャン、ジェイムス・ブラントだが、実はもと英国軍人で、コソボ紛争の時はNATOの偵察将校として、3万人の平和維持部隊を率いて、当地に赴任している。

NATO軍のコソボ空爆は記憶に強く残っているので、ジェイムスがそれに多少なりとも関わっているのを知ると複雑な気持ちになるが、彼の音楽を聞くとそんな思いも消えてしまう。

武器を捨てた吟遊詩人は、これからも等身大の男の心象風景を、風に吹かれながら、切々と歌いつづけることだろう。

 

 

 

 

 

 

最近、癌で急逝した米原万里氏の著作を読むのがマイブームになっているが、もうすぐすべて読み終えそうで、とても切ない。

いままで私のカテゴリーにまったくなかった旧ソ連や東欧(今はそう呼ばないらしいが)についての目を開かせてくれ、英語圏以外の外国語と日本語の関係性という新しい世界を開かせてくれた。

それにしても氏はスケールの大きい人だ。例えれば、子供を6,7人育てているたくましいおかみさんといった感じか。だから書かれているものも、机上の論理ではなく、生活に密着したぬくもりが感じられる。

さて、氏はかなりの大食漢らしく、食べ物に関する話題も多いが、これはそれ、子供の頃の東欧暮しからか、不思議な食べ物が登場する。

その一つが、「トルコ蜜飴」

何とも字面だけ見てもヨダレが出そうではないか、トルコ蜜飴。

トルコは養蜂が盛んだ。きっとその美味しい蜜をたっぷり使ったお菓子に違いない。西洋のように牛乳や卵などは使わず、トルコ独特の香辛料をきかせたそのお菓子は甘く、それでいてひなびて郷愁をさそう味わいだろう、あのボスポラス海峡の夕焼けのように(つか行った事ないけど)

などと想像をたくましくしていたのだが、なんとそのトルコ蜜飴より100倍美味しいお菓子があるという。その名は「ハルヴァ」

プラハのソビエト学校で、ひと匙味わっただけのそのお菓子が忘れられず、幻のお菓子を求めて氏の苦しい旅が始まる・・・。

かように、氏の食べ物の話には、苦しみが付きまとっている。

小学校の頃家のゴミを燃やしていたら(以前は各々の家でゴミは処分していたのだ)見覚えのないバナナの皮を見つけ、知らない間に親が食べたのを知り泣きじゃくる。

ソビエト学校の林間学校で、『おむすびころりん』のお話をみんなに聞かせているうちにだんだん悲しくなり、夜も眠れず一週間苦しみ続け、とうとうプラハにいるお母さんに「おむすびが食べたい」と手紙を出す。

氏にとって食べる歓びより食べられない苦しさの方が心に残っていたのだろう。

癌の末期、ほとんど好物を口にすることは出来なかっただろう氏が、どうか今、天国で「ハルヴァ」を堪能していますように・・・。


 

 

 

 

1ヵ月の熱戦が終わり、喪失感にさいなまれている今日この頃。

アズーリ応援してたので優勝は嬉しかったが、それにしても最終戦の予想外の出来事にはたまげた。

不穏な空気の中、ジタンの頭突き映像が流れた時は、すわっ、乱闘騒ぎに発展するか!?と色めきたったものだが、さすが伝統あるワールドカップの決勝戦、そんな愚行をする人はだれもおらず、当事者だけが静かに去っていった。

だが残り試合のイタリアの動きの悪い事。フランスは10人、しかもエースを欠いているのだから絶好のチャンスなのに、まるで気の抜けたようなプレーなのだ。そして心配していたPK戦突入。ジタンの退場にショックを受けているのはイタリアのような印象を受けた。

それにしてもこの日のジタン、いつもと違っていた。妙にニヤニヤしていたし、最初のPKも人を食ったようなチップキックだ。いくらベテランとは言え、大事な場面でそれをするかなぁ、と不思議だった。

思うに、もう彼の心は半分ピッチから離れていたのだ。そして退職を決めた社員が積年の鬱積をはらすように、あの行為に出たのだろう。マテラッティが何を言ったかは関係ない。ゲーム中の罵り合いには慣れているだろうし。

有終の美を飾り、花道を引き揚げていく34歳。そしてMVP、伝説として語り継がれる英雄・・・・・・。

マスコミがお膳立てした道をジダンは選ばなかった。たとえあと数分ガマンすれば栄光ある人生が待っていたとしても、彼は今の自分の気持ちを最優先した。

そう彼は狩猟民族なのだ。先々のことを考えて自分を抑える農耕民族とは違う。だからこれまでやって行けたのだろう。

メディアが勝手に作り上げた聖人君子のイメージなんてくそくらえだ。風当たりは厳しいだろうが、彼の才能・実力は比類なきもの。これからも自分らしく生きて欲しい。                      アデュー。

 

 

 

7月1日深夜のワールドカップ準々決勝、イングランド対ポルトガル戦。

極端にイングランド寄りの実況をする民放のアナに、ポルトガルを応援していた私は呆れてしまったが、怒りよりも逆にファイトが沸いてきて(つかこんな真夜中にファイトが沸いても仕方ないのだが)、ラスト、C・ロナウドがPKを決めた時のカタルシスは計り知れなかった。ありがとう、日テレアナ。

さて準決勝までの中休み、久しぶりにゆっくり寝てのんびり過ごそうと思っていたのに、夜になると寂しくてたまらず、普段見ないウインブルドンなどを観戦して時間をつぶす始末。

早く試合が見たいと思いつつも、いざ試合が始まると、胸が苦しくなり呻吟する。特にお互い拮抗したゲームが続くと、ああ早く時間が過ぎて欲しいと願うが、そんな試合に限って延長戦、PK戦へともつれ込む。

ワールドカップとはどうしてこんなに切ないのか。見ていても楽しさよりも悲しさ口惜しさのほうが多い。でも見ずにはいられない。だがそれも、もう終わりが近づいている。

今度の月曜の早朝、やっと苦しみが終る。そして思うだろう、ああ6月9日の開幕戦の日に戻りたいと。

降り続く雨音を聞きながら、切なさがより募ってくる。なぜ多くの人々は、あんなに陽気に観戦できるのだろうか。

 

 

 

 

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