ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2006年08月

戦争と言うものは、人の心に麻酔をかけるらしい。普段は穏かな家庭人であり良き市民でもあった人が、ひとたび戦争となると、平時では考えられない残酷な行為に走るのも、この麻酔が影響しているのだろう。

戦後育ちの者が、親の世代の戦争犯罪を恥じ非難するのは当然だし、それは健全な考えだとは思うが、しょせん麻酔をかけられた経験のないものが、どこまで彼らの心の奥底を理解する事が出来るだろうか(それともあえて理解しないのが良いのか)

『朗読者』という本を読んだ。作者はドイツ人で法律学の教授でもあるベルンハルト・シュリンク。

読み始めてしばらくは、ちょっと気持ちが悪かった。15歳の少年ミヒャエルと36歳のハンナはふとしたことで出会いたちまち恋人同士になるのだが、この2人、どうも魅力が感じられないのだ。15歳の中坊は、下衆な言い方をすれば、ただひたすら「やりたい!」だけで、それでいてこの中年女を見下しているところがある。いけ好かない。
女の方も、いい年をして妙に感情的で、時々意味不明な行動をとる。第一少年を「坊や」と呼ぶのが気持ち悪い。途中で読むのを止めようかと思ったくらいだ。

やがて女はベッドで少年に本の朗読をせがむようになる。そして7年後・・・・・。

アウシュビッツの女看守だった罪を問われ、法廷の被告席に立っているハンナを、大学で法律を勉強しているミヒャエルは傍聴席で見つめていた。

ハンナは収容所の看守だった過去の他に、もう一つ弱みがあった。そのため裁判では不利な状況に立たされ、主犯に仕立て上げられ重い刑に処せられる。ミヒャエルはその事実を知っていながら助けることが出来なかった。

法律を学んでおきながら、生涯最初で最高の女を救えなかったミヒャエルの屈折は死ぬまで続くだろう。

救いたかったけど出来なかった。手を伸ばせば届くのに力及ばなかった。現実とはそんなものなのかも。平時でも戦争中でも・・・。

 

 

 


 

以前、塩野七生氏の『マキアヴェッリ語録』の中のある箴言を読んで、思わず唸ったことがある。

「民衆(ポポロ)というものは、善政に浴しているかぎり、とくに自由などを、望みもしなければ、求めもしないものである」

勿論、反対意見の人も多かろう。それは奴隷の生活だ、愚民の考え方だと。だが私は、そこそこ生活が出来て日々が充実しているならば、あえて奴隷の生活でも良いと思っている。見識者からは軽蔑されるだろうが、それが私の器なのだから仕方がない。

さて、ドイツ映画「トンネル」を見た。

1961年、突如作られた東西ベルリンの壁をめぐる悲劇。これは西ドイツに脱出した人たちが、愛する家族や恋人のために、ベルリンの壁の下にトンネルを掘って脱出させたという実話を元にした作品である。

ドイツ映画らしい、派手さはないが俳優たちの抑えた演技、シックなベルリンの街並み、物語は淡々と進み、やがて大きなクライマックスを迎える・・・。

だが、大変感動的な物語であるにも関わらず、どうも自分にはスッキリしないのだ。

まず主人公のハリーという男性。水泳の有名選手で、以前反ソ暴動で、東側の警察からひどい目にあった経験がある。それがあって、彼は西へ脱出したのだが、なぜか東ドイツに残された妹を、西側へ連れてこようと躍起になっている。

でも妹は結婚して娘もいる。ダンナは優しそうな人で、東ドイツの生活に格別不満もないようだし、暮らしぶりも普通だ。

なぜ嫁に行った妹を、こうも執拗に脱出させようとするのか、理解に苦しむ。

この妹のダンナがまた、ワールドカップアルゼンチン代表のカンビアッソそっくりで(決勝トーナメント、ドイツ戦で、最後のPKを失敗して男泣きしてた人ね)、誠実さがにじみ出ているような人なのだ。

それなのに妹も、ダンナを捨て、娘だけを連れて西に逃亡することに何の未練もないようだ。

う〜ん、私だったらあえて大きなリスクを冒して西に行くよりも、多少不自由でも、優しいダンナさんのいる東に残る方を選ぶだろうな(実際多くの人々が脱出のさい命を落しているのだ)

そしてブツブツ文句を言いつつも、肉の配給の行列に並び、つまんない国営テレビを見ることだろう。

もちろん私は東ドイツの実態を知らないから、のん気にそう思うのだろうが。

そんな訳で、映画の中の、多くの勇気ある市民を称賛しつつも、どうもその感動の波に乗り切れない自分を疎ましく感じている。

 

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