ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2006年10月

もう11月だというのに暖かい日が続いている。カラッとした快晴もいいが、風がほほをひんやりさせ、食べ物を美味しくさせてくれる寒い季節が恋しい。

さて、この季節になると読みたくなるのが、トルーマン・カポーティーの描く短編、いわゆるアラバマものの傑作『クリスマスの思い出』だ。

彼の少年時代の実体験に基づくと言われているこの作品は、読むたびにとろけてしまい、このまま本を胸に抱いて夢の世界まで連れて行きたいほどだ。

7歳のバディ(多分少年カポーティー)と60過ぎのおばちゃんは遠いイトコ同士。

身内の縁薄い孤独な少年と、内向的で純心無垢なおばちゃんは世界中で、たった二人の友だちだ。

彼らの一年で一番の楽しみはクリスマスである。

11月の晴れた日、まず親しい人へプレゼントするフルーツ・ケーキを作るのから始めるのだが、これがめちゃくちゃ楽しそうなのだ。

お金がないから高い材料は買えない。二人はオンボロ乳母車で林へ、ケーキに入れるピカン(果実の一種?)を拾いに行く。
(日本の感覚で言えば、秋深まる時期、よその林へギンナンを拾いにいくようなものか)

またこのおばちゃんの作るフルーツ・ケーキの美味しそうなこと。ちょっぴり入れたウィスキーの匂いまでただよってきそうだ。

次にツリー作り。

ひと気のない森へ行ってモミの木を切り、集めておいたハーシーのチョコレートの銀紙で飾りを作る。

そして最後に、お互いのクリスマスプレゼントに考えをめぐらす(このあたり、賢者の贈物っぽいかも)

晩年、荒れた生活をしていたカポーティーだが、本当はアラバマ時代に帰りたかったのではないだろうか。

彼の葬儀の時、親友によってこの『クリスマスの思い出』が朗読されたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

高校の履修不足問題、どうやら70時間を限度とする補習で、決着がつきそうな感じだが、生徒らの可愛げのない発言を目にするたび、「350時間きっちりやらんかい」と思ってしまう。

さて、素朴な疑問だが、この履修不足の科目の教師は、一体何をしているのだろう。

例えば、某進学男子校では家庭科をまったく履修していなかったのだが、必修科目である以上、時間割には載っていたと思うのだが。

必修科目なら必ず担当教師がいるはずだし、その授業が行われていないのならば、公立であれば、奈良の市役所職員と同じ、税金の無駄遣いではないだろうか。

その科目の(家庭科なりの、受験に必要ない科目)教師は、「授業をしなくていい」と知り、どう感じたのだろう。屈辱に思ったか、「ラッキー!」と喜んだか。

教師の給与体系というのもよく分らない。

だれか現場の先生、匿名で教えてくれないかなぁ。

 

 

 

カポーティトルーマン・カポーティの名作「冷血」が出来るまでを描いた映画、『カポーティ』を観に行った。

そこで「朗読会」なるものを初めて知る。作家が、関係者やプレスを招待して、未発表の新作を朗読するのだ。

考えてみれば字を書いたりタイプを打ったりするのは間接的な作業だ。新作を渇望している人々の前で、ダイレクトに自分の肉声で物語を伝え、人々がそれに感動し、スタンディングオベーションする。

作家にとってこれほどの恍惚があるだろうか。

『冷血』の抜粋部分を朗読したカポーティは、会場の鳴り止まぬ拍手喝采の中で、感動に酔いしれながらも冷たい汗を流す。

まだ作品は出版できないのだ。犯人達が死刑にならない限り・・・・・。

さて、犯人と面談している彼は、まさに「冷血」そのものだ。

犯人(特にペリー)に甘声を弄し、いかにも同情を寄せているように振る舞ってみせる。そのためペリーはカポーティに一縷の望みをかけ、彼にすがるようになる。

だが、これもすべて本を出すためなのだ。ペリーから多くの事実を聞き出したいだけ。その露骨な偽善者ぶりには呆然とさせられる。

一方、NYの社交界に戻って、事件のことを面白おかしく語ったり、「あいつらは金脈さ」などとうそぶいている姿には、逆に、精一杯つっぱって、偽悪的に見せてるような気がしてならない。

カクテルをあおりながら「何、この作品はそんなに騒がれるほどのものじゃないさ」などと一人ごちたりもする。

さすがに本のためなら人の命をも弄ぶ、作家というものに恐れをなしたのだろう。でも一度火がついた創作意欲はもう止まらない。

それこそ作品のためなら悪魔に魂を売ってもかまわないと思ったのだろう。

だが、どんな優れた作家でも、それのみで生きる事は出来ない。彼もまたペリーと同じく心にトラウマを抱えた、一人の平凡な人間に過ぎなかったのだ。

ラストの、うつろな眼差しは、何を語っていたのだろうか。

何よりも君の死を恐れ、誰よりも君の死を望む。

冷血

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 BBM
これは私見だが、映画の名作には2種類のタイプがあるように思う。

ひとつは、観ている間は面白く、興奮して泣いたり笑ったりするのだが、終わったとたん、潮が引くように消えていってしまうもの。
もうひとつは、観ている時は、たいして感動はしないのだが、終わってしばらくたつうちに、じわじわと、まるでボディーブローのように効いてきて、しまいにはその映画のことで頭が一杯になってしまうもの。

先日、再上映館で観た『ブロークバック・マウンテン』は、まさに典型的な後者タイプの作品だ。

今年の4月に観たときなど、「へぇ、これがあのアカデミー最有力作品だったの、なんかいまいちだなぁ」と思っていたのだが、時間が経つにつれ、得体の知れない哀しみが、胸にじわじわとせまってきた。

そしてこの哀しみは、なぜか表面には表れず、内へ内へと向う。

今回の観賞も、一滴の涙も流さなかったのに、胸が切なく重い。そして言いたいことが山ほどあるのに、何を語ればよいのか分らず、とまどうばかりだ。

まず、ワイオミングの映像が悲しいほどに美しい。失礼な言い方かもしれないが、ホモの映画なのに、これでもかこれでもかというほどの美しい大自然。羊の群れ、雪を抱いた山々、はるか彼方まで広がる緑の牧草地・・・・。

これは、現実世界での男たちの暮しとの対比だろうか。

例えば主人公のイニス。
ラスト近く、彼は40歳を過ぎて、妻子と別れ、一人わびしいトレーラーハウス住まいをしている。仕事は牧場での季節労働。
元妻は再婚して幸せに暮らしている。
唯一イニスになついていた長女も、近々金持ちらしい家の男と結婚する。もう今ほど、会いに来ることもなくなるだろう。

孤独な中年男の唯一の支えは、たった一人の友だちであったジャックと過ごした、ブロークバック・マウンテンの思い出だけだ。

見ようによっては負け犬の人生だ。もっと上手く立ち回れば、と思われるところも多々ある。

だが、学もなく不器用な男が、自分でも思いがけない愛に戸惑い、身悶えながらも必死に生きてきた20年の日々は、決して無駄ではないと信じたい。

イニスには、これからもつらい生活が続くだろう。

だからこそブロークバック・マウンテンの思い出は心の中で色褪せず、彼を照らし出してくれるはずだ。

ブロークバック・マウンテン

 

 

 

 

 

 


 

画像福岡で起きた中二男子いじめ自殺事件で、一年時の担任教師による軽率な行為が、物議をかもしている。

確かに率先してその生徒を『偽善者』よばわりしたり、母親の相談内容を他の生徒にばらすなど呆れた行動だが、そのニュースを聞いて私は「この先生、生徒の間では人気者だったのでは」と思った。案の定、詳しい人の話によると、サッカー部の顧問で面白くて人気があったという。

この「人気者」というのがくせものだ。きっと教師は生徒の目線に立って行動していたのだろう。

これは断言できる。教師というものは、子供の目線に立ってはいけない。

そりゃ生徒の目線で見れば、面白くて優しい先生が絶対良いにきまっている。でもそれに合わせてどうする。負荷を与えなければ、人は成長しない。仰ぎ見る存在が必要なのだ。

さて、子供の間でいじめが自然発生した時、これを子供らだけで解決できるだろうか。

いい大人でさえ、職場や地域でのいじめに悩まされている。まして12,3歳の子供には無理である。

いじめの巣窟を一掃するには、大人の力が必要である。ガツンと叱ってくれる先生が不可欠なのだ。そして、その先生が仰ぎ見る存在であればあるほど、水が高いところから下へ落ちるように、子供の心に流れ込む。

仰ぎ見る存在とは、別に役職についているとか、経験があるとかいうのではない。つねに志を高く持っているということだ。

そんな訳で、先生方、生徒に嫌われる事、うざがられる事をどうか厭わないで下さいね。

 

 

 

 

 

 


 

今話題の映画、「フラガール」を観に行った。

あまり期待してなかったのだが、どうして面白く、日本映画では久々に堪能させてもらった。

内容は、昭和40年、閉山が相次ぐ炭鉱の町、福島県いわき市。町を救うため「ハワイアンセンター」が建設され、炭鉱の娘達が、ハワイアン・ダンサーになるべく特訓を受けることになる。

最初は戸惑っていた田舎娘たちも、やがてダンスの魅力にひかれてゆき、鬼先生の下、町の人々の偏見や数々の障害にもめげず、立派なハワイアンダンサーを目指して努力を重ねる・・・・と言う、まったくベタな内容なのだが、気持ちよく涙が流せた、さわやかな作品であった。

役者はみな素晴らしかったが、特に富司純子さんが演じた、一本気な母親は、70年代、緋牡丹お竜の藤純子を彷彿させ、しびれた。

だが、ひねくれ者の私は考えてしまう。たとえフラダンスが成功しても、それだけで町は救えない。

ハワイアンダンサーの栄えあるお披露目の日、蒼井優演ずるチームリーダーのお兄さんは、いつものように炭鉱に向う。
ダンス仲間の一人は、父親が解雇されたので、寒い北国の炭鉱への引越しを余儀なくされた。

まともに考えれば炭鉱に未来はないのだが、多くの男達がヤマに執着し、転職した仲間を冷たい目で見る。

これほど、時代の波に乗るというのは至難の技なのだ。特に炭鉱の男にとっては。

産業の転換期において、このような悲劇はなくならない。
娘たちの晴れやかなフラダンスは、そんな男達(女もだが)への心強いエールのようにも思われた。

フラガール

 

先日起きた、米国ペンシルバニアのアーミッシュの学校を襲った事件。銃の犠牲者は5人に増え、重体の少女もまだ何人かいるそうだ。

のどかなアーミッシュの村を襲った悲劇を知り、すぐ思い浮かべたのは、ちょうど読み終えたばかりの本、トルーマン・カポーティの「冷血」であった。

「冷血」の方は、平和な片田舎で起きた一家四人の惨劇事件である。犯人は至近距離から被害者の頭をぶち抜いている。殺す必然性のない無意味な殺人(まぁ殺人に必然性もなにもないのだが・・)

気持ち悪いくらい似通っている2つの事件。

ところで、惨劇が起きると、毎回とりざたされるのが、犯人の生い立ちやバックグラウンドだが、それを探るのは空しい作業だ。

はっきり言おう。こういう残酷な事件を起こした犯人に対しては、事件の現象だけで裁判を執り行うべきである。

どんな冷酷な犯罪を起こした者も、探せば良い所はあるし、会ってみると意外といい人だったりする。犯人を知れば知るほど、深みにはまって真実が見えなくなる危険性がある。

さてこの『冷血』だが、事件の被害者は、村の裕福な農場経営者で、四人家族。働き者で誠実な父親、病弱な母、素直で聡明な娘と息子。

まるで絵に描いたような古き良きアメリカの一家が、2人組みの男によって虫けらのように殺されていく。

だが、読み進んでいくうちにだんだん、「やばい、やばいよ」という気持ちになってきた。
なんと殺人犯のうちの一人、ペリーに感情移入してしまい、知らず知らずのうちに彼を応援している自分がいるのだ。

不幸な生い立ち、貧困、施設での虐待に加えて、身体的なハンデ。しかしその中で、彼は学問や芸術に憧れ、冒険や宝探しを夢想し、ギターを奏で、詩を書く。そのけなげさには、胸をつかれた。

聞くところによると、カポーティ自身も早くに両親が離婚し、親戚の間をたらいまわしにされるという不幸な少年期をおくり、身体にコンプレックスも抱いていた。

そんなわけで、ペリーには深いシンパシーを抱いていたらしい。

無残に殺された善良なアメリカ市民より、犯罪者に心を傾けたことに関して、カポーティ自身も苦しんだろうか。

朝日新聞の10月2日夕刊に、沢木耕太郎氏の、映画「カポーティ」の批評が載ってあり、こんなことが書かれていた。

ある時、カポーティは取材中に親しくなった警察官に、作品のタイトルを「冷血」に決めたと話す。すると、捜査官が皮肉な口調で応じる。
「それは彼らの犯行のことか、それとも彼らと親しくする君のことか」

殺人者に同情を寄せた読者も、やはり冷血なのだろうか。

やがて、カポーティはこの作品の発表後、筆を絶ったという。

冷血

 

 

 

 

 

 

アーミッシュの子供
アメリカ東部で、また銃の乱射事件があり、こんどは、あのアーミッシュの学校が犠牲となった。

犯人は子供達を人質にとった後、なぜか男の子達は開放して女の子だけを残し、一人ずつ処刑していったという・・・・・。

殺人犯にこんなこと言っても詮ないが、なんと卑怯な男であろう。

平和主義で、もちろん銃など持たず、車や電気も使わぬ、のどかな村で起きた惨劇。
ショックであるが、一方、やはり狙われたな、という気もしないではない。

昔ながらの生活をしているアーミッシュの村では、学校にセキュリティシステムなんてないし、鍵をかける習慣もない。当然携帯電話を持っている人もいない。

学校は、7歳から13歳までの子供達が同じ教室で勉強している。先生は、未婚のアーミッシュ女性で、たいてい20歳未満の少女だ。

争いを好まない彼らを襲うのは、犯罪者にとって赤子の手をひねるより簡単だろう。

しかも、数少ないアーミッシュの画像(彼らは写真を撮られるのを嫌う)を見ると、子供達はみな純朴で愛らしく、女性は清楚で美しい。
もし強姦魔や変質者に狙われたら・・・・・。

銃犯罪の目立つアメリカで、アーミッシュだけが平和でいられる訳はない。

過去、カトリックの迫害を逃れ米国に渡ってきた彼らは、こんどはどこへ逃げれば良いのだろうか。

“シンプル”という贈りもの―アーミシュの暮らしから

 

 

三島由紀夫の小説に『禁色』というのがある。

今から数十年前、まだ「ホモ」や「ゲイ」なる言葉が一般的でなかった時代、この小説の中で繰り広げられる男同士のめくるめく愛憎劇には、腰を抜かしたものだ。

「これは本当なのか、すべて三島の妄想じゃないのか」

ある意味、「なぜ赤ちゃんが産まれるのか」を知った時よりも、田舎の思春期の中学生にはショックであった。

さて、この「禁色」だが実は正しい読み方が分らない。「きんじき」なのか「きんしょく」なのか。ハッキリしないまま、だらだら時は過ぎたが、最近、浅田次郎氏のエッセイを読んで、どうやら「きんじき」が正しいと知る(つか、それくらいすぐ調べろよ自分)

ただ氏によると、「禁色」は元々宮廷における、目上の人に用いる色のことだという。例えば「黄色」が皇帝の色の場合、臣下や一般庶民にとって、それは使用してはならない「禁色」なのである。

それを当時タブーであった同性愛のタイトルにするセンスはスゴイ。

まさしく禁じられた愛でありながら、そこはかとなく高貴な香りが漂うネーミングではないか。

ところでこの物語は、まれに見る美青年でありながら、男しか愛せない若者、悠一と、醜いがゆえに女達から蔑まれてきた老小説家の仕組んだ復讐劇である。

美青年と老醜の男というと、『ヴェニスに死す』のタッジオとアシェンバハの関係に似ているようで違う。
日本の老小説家は、ノンケで男に興味(性的な)はない、女好きの脂ぎったじいさんだ。ある意味、アシェンバハよりたくましい。

そして悠一は男しか愛せないくせに母のすすめた女性と結婚する。やがて妻が妊娠し、臨月を迎えると、彼はその出産に立ち会う。

最近、出産に立ち会ったせいで、性的不能になった男性の話しを聞くが、この小説の場合は逆で、恐ろしい苦痛を共有することで、妻との間に初めて夫婦らしい絆が芽生えてくるのが興味深い。

三島由紀夫が自決して36年、時代はまだ彼に追いつかない。


 

 

 

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