ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2006年11月

トランスアメリカ117歳の少年がいる。
父親の顔を知らず、幼い頃に母は自殺し、彼はその現場を目撃している。
その後、養父からは性的虐待を受け、家出してニューヨークで男娼として生活していたが、麻薬所持で警察に捕まる。

そこへ突然キリスト教関係を名乗る中年の女性が現れて、身元引受人になってくれ、なぜか一緒にLAまで車で旅することになった。

最初のうちは警戒心が強く、頑なな少年であったが、アメリカ大陸を旅するうちに、だんだん打ちとけて心を開いてきた。

だがそれも束の間、彼は見てしまうのだ。

女性が、実は「男」だということを。

ところがショックはそれだけではなかった。その女性は、実は、長い間少年が会いたいと切望していた○○だったのだ・・・・・。

『トランスアメリカ』という映画。性同一性障害の女性の役を演じた女優に称賛の声が寄せられているが、私はこの少年の方が気になった。

普通の人なら一度も受けないような体験を、5回も6回も味わい、自暴自棄になりながらも、なんとなくその状況に適応していくたくましさ。

またこの少年の眉間の辺りが、若い頃のアラン・ドロンを彷彿させるのだが、この映画の宣伝文句で「リバー・フェニックスの再来」と呼ばれているのを知り、自分の時代錯誤もここにきわまれり・・・とちょっと落ち込んだ。

そんなわけで、性同一性障害の女性よりも、普通の少年でありながら、普通の生き方が出来なかった少年の方に感情移入してしまうのであった。トランスアメリカ

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

ベゴニア私が初めて自分用のPCを購入したのは、1999年の10月である。

インターネットに繋いで、まず一番に閲覧したのは、今は亡き「科学技術庁」のHPだった。

なぜならその数日前、茨城県の東海村で、あの臨界事故が起きたからだ。

「臨界」「中性子線」といった不慣れな言葉に戸惑い、人間の手で(しかもステンレスのバケツで!)ウラン燃料を扱っていたという事実に、あ然としたものだ。

そして2006年の今、NHK「東海村臨界事故取材班」によるドキュメント『朽ちていった命』−被爆治療83日間の記録ーを読んだ。

これは2001年にNHKスペシャルで放送されたものを本にまとめたものだ。

実はその番組も見ていたのだが、治療を受けるJOC作業員、大内久氏の姿が痛々しくて、「何も苦しい思いをさせて、見込みのない延命治療をしなくてもいいじゃない、あれじゃ人体実験じゃん」と憤ったものだ。
どうもテレビというものは人間を感情的にさせる。

今この本を読み、あらためて当時の医療関係者の苦悩を考えてみる。

被爆した大内氏は、事故当初はそんなに重篤な患者に見えず、看護婦と冗談をいって笑わせたり、面会に来た妻が帰ろうとした時「もう帰っちゃうの」と甘えたりする、明るい35歳のお父さんだった。

だが彼は、一瞬のうちに一般の人が一年間に浴びる限度とされる量のおよそ二万倍の放射線を浴びているのだ。
染色体は壊れ、日を追うごとに皮膚、血液、そして全ての臓器がじわじわと生きながら壊れていく。

日本の最先端の医療チームを持ってしても、出来るのは延命治療だけ。爛れた皮膚からは体液が流れ出し、東大医学部の教授みずから、汗だくになって包帯交換をする。

この本は声高に、原子力反対や核兵器について語っていない。淡々と未知の領域である被爆治療を語っているだけだ。それが良い。

延命治療を行う医師をせめてもしょうがないのだ。それが医師の性(さが)なのだから。

それにしても、この臨界事故で核分裂反応を起こしたウランは、重量にしてわずか1000分の1グラムだったという。

人は果たして本当に核をコントロール出来るのだろうか。


 

 

 

 

 

 

 

 


 


ステンドグラス先週、「山陰二大美術館めぐり」というツァーに参加したのだが、「足立美術館」に気持ちが行っていたためか、もう一つの美術館「ルイス・C・ティファニー庭園美術館」については、ほとんど予備知識がなかった。

「イングリッシュガーデンきれいだよ」と聞いていただけで、たいして期待もせず行ってみたのだが、これがどうして、予想以上に良かった。

アール・デコ風の美しいポーチ、咲き乱れる花々、そして館内に入ればガラス張りの広々とした回廊が続く。

そしていきなりガイダンス・ルームで写楽や歌麿の絵、柿右衛門の壺に出会う。

館内は19世紀後半から20世紀にかけてのジャポニズムが溢れている。

写楽アールヌーボーの美しい調度品の数々、ステンドグラス、宝飾品・・・・・。

有名な五番街の「ティファニー&カンパニー」に生まれ、たくさんの美術品を作ったルイス・C・ティファニーとその時代の作家の作品が、山陰の小都市の美術館の広々としたフロアに溢れている。

そして外に出れば、宍道湖の陽光と美しい草花たち・・・・。

大変素晴らしかった、素晴らしかったのだけど、美術館全体が何か空疎な感じなのだ。施設が広すぎるせいか、それとも展示品の豪華さのわりに、お客が少なかったせいか。

足立美術館のような、腹にズシンと来るような迫力が感じられないのである。

そして見学の後、旅行会社の人がそっと教えてくれた。

「ここ来年の3月で閉館するんですよ」

う〜ん、空疎な気持ちがするのはそのせいだったのか。やはりお客、来ないよねぇ、人口少ないし。こういちゃ何だか山陰よりも、神戸か横浜に建てた方がよかったのでは、などと色々考えた。

だが家に帰ってHPを見てひっくり返った。うわ、何か複雑そう。市長との間にどんな確執があったんだ。

後味の悪い結果になってしまったが、美術館自体は大変見応えがあるので、近々山陰に行く予定の方、ぜひ立ち寄ってみては。

日本を愛したティファニー

 

 

 

 

映画『プラダを着た悪魔』を見た。ニューヨークのトップファッションを楽しみにしていたのだが、そこにあったのは古きよき日本の伝統であった。

ガーデン一流ファッション誌「RUNWAY」のミランダは、ファッションを目指す人なら誰もが憧れ怖れているカリスマ編集長。

そんな仕事の鬼の編集長の下に、なぜかダサくてちょっと太目の(私は全然そう思わなかったが)大学を卒業したばかりのアンディが、アシスタントとして採用される。

ミランダの命令は絶対で、いついかなる時でもその要求に答えなければならない。
その内容も、台風の中飛行機を手配しろとか、出版前の「ハリー・ポッター」の新作を3時までに準備しろなど、容赦ない。

だが私は思った。この編集長、すごいぜ。

日本の伝統芸能の世界でも、弟子入りした新人は、まずぞうきんがけや師匠の身の回りの世話に明け暮れる。

一見意味の無いことのように思われるが実は違う。

仕事で大事なのはまず自分で考える事だ。どうしたら効率よく作業が出来るか、どうしたら要求に答えられるか、必死に考える事で、人間は磨かれるのだ。

ミランダは又、常にアンディのファッションや行動をけなしてばかりだが、これも正しいやり方である。

それで淘汰され強くなっていく。けなされたから、何も教えてくれなかったから、といって止めていく人は最初から要らない。

また、この鬼上司がアンディをアシスタントとして選んだ理由として、ファッションに興味がないというのもあったと思う。

過去の多くのアシスタントは、ミランダに憬れてこの仕事についたが、憬れのあまり盲従してしまって、そこから抜け出すことが難しい。つまりアシスタントをどんなに鍛えても、自分の縮小再生産なわけだ。

その点アンディはその束縛がない。このまま磨いていけば、自分を遙かに超える編集長になれるのではないか、そういう期待もあったのでは。

映画の最初で、ファッションに躍起になる「RUNWAY」の仲間達を、採用されたばかりのアンディが、冷笑するシーンがある。

その時、ミランダは冷静に低い声で(そう、この上司はいつも低い小さめの声で話す。決して甲高い声など出さない。それがまた良い)
アンディの着ている安物の青いセーターを指差し、青色にも種類がたくさんあり、自分達が流行らせた色が、やがて世界を巡り、末端の量販店にも普及していく過程を説明していくくだりなど、聞きほれてしまった。

鬼上司は、シャネルやプラダやD&Gといった高級ブランドスーツの下に、高級な知性をも持っていたのだ。

この上司に付いて、もっと吸収すれば良いのに、と思う反面、若い可愛い女性には酷かなぁ、なぞと色々な事を考えてしまうのであった。

プラダを着た悪魔


 

 

 

 

 

 


 

紅葉
普段、NHK朝の連続ドラマは興味がないのだが、今回の『芋たこなんきん』は欠かさず見ている(といっても週末、一週間分をまとめて見ているだけだが)

ドラマのモデルである作家田辺聖子の小説やエッセイが好きなのもあるが、何といっても藤山直美の存在感である。

松竹の看板喜劇俳優だった藤山寛美の血を引き継ぐ、才能のある喜劇女優であることは前から知ってはいたが、「この人、ただ者ではない」と思ったのは、映画『顔』を観てからである。

根暗な引きこもりの中年女が、ふとしたはずみで殺人を犯し、西へ西へと逃亡していくうちに段々心の重荷が消え、どんどん美しくなっていくという不思議な物語だが、藤山の演技が絶妙であった。

いつも喜劇が多いせいだろうか、映画での暗い絶望の表情には思わず背筋が寒くなった。
この人、本当は喜劇よりシリアスな方が向いているのかもしれない。

さて、ドラマ『芋たこなんきん』であるが、ドラマの2週目で、藤山演ずる主人公の町子は芥川賞を受賞し、かもかのおっちゃんこと、五人の子持ちの医師、徳永と結婚している。

人生の節目と言うべき、文学賞受賞も結婚も早々とすませ、これから続くのはただただ長い日常だ。

通常の朝ドラだったら、主人公が家業に励みながら恋をし結婚をし、出産、そのうち戦争が始まり夫や息子が戦争に行って、一家バラバラになって・・・・みたいな波乱万丈な展開になるのだが、今回のドラマにはそれが一切ない。

一歩間違うと、退屈極まりない話になるリスクがある。それを支えているのは、脚本や演出の力もあるが、なにより役者の力だろう。

藤山直美や、かもかのおっちゃんこと國村隼らの力にかかっている。

来年3月まで、このゆるゆるの日常を描いたドラマが、緊張感を持って続けていけるかどうか楽しみである。

芋たこなんきん―連続テレビ小説

 


 

 

 

 

 

 

奇跡の人よく世間では、ヘレン・ケラーのことを「三重苦の聖女」と呼びならわしているが、考えてみると、ちょっとおかしい。

たしかに幼い頃は「三重苦」だったかもしれないが、別に声が出ない病気にはなっていないし、後に猛特訓の末、言葉をしゃべれるようになっている(もちろん通常の人のようにはいかないだろうが)

また、手話と多数の言語の点字も読める。

しかも彼女の自伝を読むと、ずい分向こう見ずでガラッパチな性格だ。もういいかげん彼女を「気の毒な女性」と定義するのはやめたらどうだろうか。

さて、北九州芸術劇場で、田畑智子主演(主役はやはりサリバン先生だろう)の「奇跡の人」を観てきた。

素晴らしかった。至福の時間を過ごさせてもらった。そして思った、これはかなり真実に忠実ではないかと。

実際、アニー・サリバンが、ケラー家に家庭教師としてやってきた時はまだ20歳。北部の盲学校を卒業したばかりの頃だ。

自身も目が悪く、劣悪な環境の救貧院で育ち、病弱な弟をそこで亡くしている。
そして、たび重なる手術の上、どうにか目が治ったサリバンは、自活するためケラー家の家庭教師になったのだ。

崇高な目的や慈愛の心などさらさらなく、とにかく生活のために、手探りの状態で彼女は、甘やかされて育ち暴君のようなヘレン・ケラーを教育する。

粗悪な環境で育ったヤンキー娘が、苦しかった過去のトラウマに苦しみ、南部の旧家という未知の世界に戸惑いながらも、自分の我を通そうとする。

そんなサリバンと、闇と音のない世界の暴君、ヘレン。二人の頑なな少女のぶつかり合いは壮絶を極める。

若い田畑智子は、そんな、精一杯つっぱっているサリバンを見事に演じていた。

「奇跡の人」の舞台は大竹しのぶのアニー・サリバンが有名だが、私は見たことがないので分らない。
芸達者な大竹より、少し固さの残る田畑の方が、アニー・サリバンらしいと思うがどうだろうか。

わたしの生涯

 

 

 

 

 

 


 

adachi2足立美術館の感激がさめやらぬ今日このごろだが、和風庭園と横山大観の名作は王道として、他に強い印象を持ったのが、上村松園作の『待月』と北大路魯山人の作った器の数々である。

実は上村松園の実物を見たのは、今度が初めてであった。

何というたおやかさであろう。抜けるように白い肌と水色の薄物の着物。うっすら透けて見える赤い柄の長襦袢。

松園美しく結い上げた日本髪の、鹿の子絞りの髪飾りの角のぽつぽつまで丁寧に描いているのがさすがだ。

この絵が描かれたのは昭和19年。戦争真っ最中で、町中では国防婦人会の怖いおばさんたちがモンペにかっぽうぎで、「ぜいたくはやめませう」とか「長い袖は切りませう」とか行ってハサミを持ってうろうろしていた時期だ。

戦局も何のその、悠々と、しどけない贅沢な若妻の姿を描いた松園を想像するとなんだか楽しくなってくる。

さて、美術館の中の北大路魯山人室を見ていると、無性にお腹がすいて来た。

とにかく魯山人の器は食欲をそそるのである。

「美しい」、と思うより「ああこのお皿に金目の煮付けを盛って食べたいなぁ」と思わせてしまう、不思議な作品ばかりだ。

魯山人については、美食家でずいぶん意地の悪いじいさんというイメージを持っていたのだが、展示されている器はどれも可愛い。

そんな訳で、腹を空かせて美術館を出た私が、松江の旅館でカニを始めとする海の幸をタラフク食ったのは言うまでもない。

 

 


 

昨年、おおたさんのブログを見て以来adachi1ずっとあこがれていた「足立美術館」に念願かなって行ってきた。

地図を調べてみると、えらい不便な地にある。アクセスをどうしようか考えた末、地元西鉄の「一泊2日山陰二大美術館めぐりと松江しんじ湖温泉の旅」なるバスツアーに便乗する。

色づき始めた紅葉を眺め ながら、バスは中国自動車道をただただひた走り、「砂の器」に出てきたそろばんで有名な亀嵩を通ったりして、6時間以上の乗車の末、やっと到着。

さて、あまりにも完璧な庭園と、横山大観を初めとする名品の数々に動転し、あせって見学するが、時間配分がうまく行かず、充分咀嚼できないまま美術館を後にしたような悔いが残る。

それにしても、あの和風庭園の完全さはなんだろう。
元来、日本人はあまり完璧なものは好まない。

『茶の本』において岡倉天心は、不完全なる美を礼賛している。

千利休の逸話にも、完璧に掃除された庭を嫌って、樹をわざと揺すって一面に葉をまきちらして満足した、というのがある。

だが、私は足立美術館の完全な庭園に、天真爛漫な美を見た。

例えば、ひなびた萱葺きの茶室の中には、嫌味ったらしいというか、とてもスノッブな雰囲気のものがある。

「この茶室は、一見みすぼらしいけど、見る人が見れば金がかかっているのがすぐわかるわよん」というような妙な選民意識である。

でも、足立全康翁の建てた美術館にはそれがない。ただひたむきに美しい和風庭園を見せたいという素直な情熱があるだけである。

そのひたむきさ素直さがあるから、完全な美でありながら冷たさや息苦しさを感じないのだ。

ところで、足立美術館の中心をなす横山大観の師は、岡倉天心である。

完全な美を求めた足立翁と、不完全な美を愛した岡倉天心が、大観を通じて繋がっているのが面白い。

きっと手段や方法が違っていても、目指したものは同じなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

11月の第4木曜日に行われるアメリカの感謝祭。映画のシーンで、家族そろってご馳走のテーブルを囲み、パパが七面鳥を切り分ける、おなじみのあの感謝祭だが、由来が面白い。

聞いたところによると、アメリカ大陸に上陸したイギリス人たちが、新しい土地に慣れず作物を育てる事もできず、バタバタ死んでいくのを見兼ねて、ネイティブ・アメリカンたちがトウモロコシなどの育て方を教えたのがきっかけだそうだ。

そのお礼のため、移民たちがネイティブ・アメリカンを食事に招いたことから感謝祭の行事が始まったそうだが、その恩人の彼らを、後に移民たちは虐殺し、しかもこの行事だけはしっかり残っているのだから、アメリカ人は何を考えているのか分らない。

さて、トルーマン・カポーティのアラバマものの短編に『感謝祭のお客』というのがある。

これは『クリスマスの思い出』と共に、少年時代のカポーティと心優しきミス・スックの交流を描いた心暖まる短編だが、『クリスマスの思い出』が、甘いお菓子なのに対して、『感謝祭のお客』はかなりビターな味わいだ。この物語には、昔も今も変わらない「いじめ」が関わっている。

年長のいとこ、ミス・スックは、バディ(カポーティ少年)にとって、自分の全てを受け入れてくれる聖母のような存在なのだが、この「いじめ問題」に関しては、なぜかいじめる側の少年の肩を持ち、バディを教育しようとし、あまつさえ大きな裏切りで彼を傷つける。

いや裏切りという言い方は間違いだろう。冷静に考えればミス・スックの行ったことは正しいし、数年後バディも、彼女は正しかったと言っている。

だが私は、ミス・スックには、いつまでも甘い無垢なおばちゃんでいて欲しかった。バディをひたすら可愛がり、盲目的にかばって欲しかった。

きっと彼女は心を鬼にして、バディの未来のために、甘い絆を断ち切ろうとしたのだろう。幸福な少年時代はいつまでも続かないのだから。

さて、この物語でバディをいじめる少年、オッドだが、私にはあの『冷血』に出てくる殺人犯ペリーの少年時代を彷彿させた。

不幸な家庭に育ち、乱暴ものだが、音楽が好きで意外と親切なところもある。そして何より潔い性格。最後の方で商船に乗りこむところも。

『感謝祭のお客』は1967年に書かれたもので、『冷血』より後だから、この少年はペリーにインスピレーションされたのかな、と思うのは考え過ぎか。


夜の樹

 

 

 

 

 

 

 

スタジアム
人が死んだ時、なぜ一周忌や三回忌、果ては十三回忌などを、とりおこなうのか。

思うにそれは、亡くなった人の魂をなぐさめるためではなく、残った人々の心の重荷を軽くするためにあるのだろう。

かけがえのない人を亡くし、当初は身も心もあらぬ状態だったのに、今では故人を思い出す事もなく、普通に食べ、飲み、笑って暮らしている。

せめて、家族や親しかった友たちが何年に一度か集まり、手を合わせ故人を偲ぶ事によって、これまでの後ろめたさを払拭し、明日から又憂いなく暮らしていけるようにする。
これは、いじらしい人間の知恵なのだろう。

さて昨日、『木更津キャッツアイ・ワールドシリーズ』を観に行った。

平日の昼間なのに、客席はほぼ満員状態。20才前後の若い人が殆どだ。みんな学校や仕事はどうしたんだ。大学の学園祭の代休とかなのか。

だが館内は静かだった。上映中私語をする人も携帯をいじる人も皆無。時々笑ったり、悲しい場面で鼻をすする音が聞こえるだけ。そしてエンドロールの間も、席を立つ人はなく、皆静かに余韻を味わっていた。

実験的で斬新な映像にも関わらず、この静謐さは、やはり人の死という重いテーマを扱っているからだろうか。

アメリカ映画『フィールド・オブ・ドリーム』を彷彿させるドラマ展開。
三年前に死んだぶっさんと仲間達の邂逅。だが彼らは知る。あの楽しかった日々は戻ってこないということを。

そして熱い友情で結ばれ、あんなにぶっさんとの再会を切望しながらも、実は、自分達は彼を必要としていない、と気づいた時の切なさ。

木更津キャッツアイの愉快な連中は、これから、ぶっさんのことはすっかり忘れ、自分らの人生を歩むことだろう。まあいい、彼も苦笑いをしながらも見守ってくれてるはずだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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