ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2007年01月

先日、久しぶりにDVDで『ユージュアル・サスペクツ』を見返した。

このサスペンス映画を初めて観た時の衝撃は忘れない。
友人に、『絶対面白いから!』と勧められて観たのだが、騙される悦びというか、まんまと罠にかけられたくやしさの入り混じった快感にひたすら酔ったものだ。

2回目からは最初ほどの衝撃はないが、伏線を検証する、あら探しの楽しみが残っている。そこでまた「そういう訳だったのか〜やられた!」と、改めて納得するのである。

さて、それにしてもこの題名、『ユージュアル・サスペクツ』

このやる気のなさは、一体何なんだろう。

この作品には、ベニチオ・デル・トロやケビン・スペイシーなど、今をときめくアカデミー俳優が出演しているが、上映当時はほとんど無名だった。

だったら尚更、客を惹きつける邦題を考えればよいものを。これじゃよほどの映画通しか見にこないじゃないか。

ふだん映画をあまり見ない人にこそ、この作品で、嵌められる快感を味わって欲しかったのに・・・。

映画関係者が考えてくれないのなら、よし私が考える。ネタバレしなくて、且つ内容がイメージできるようなものと・・・。

「常習犯たち」
「保釈人の証言」
「悪魔のような男」
「悪魔が殺しにやって来る」
「昔はロン毛だったのに」

・・・・・・・・・・

やっぱ「ユージュアル・サスペクツ」でいっか。


 

スオウ
映画『それでもボクはやってない』の周防正行監督の写真を見て、びっくりした。この人ずい分老けたなぁ。

『Shall we ダンス?』の時は、まだ若々しく、育ちの良い青年という佇まいだったのに。
その頃、雑誌の対談で、故淀川長治氏からも「君はいつまでも若いね」
などとからかわれていたのが、この変わりようは何だ。
美人の嫁さんから精気を吸い取られているのか。

ま、監督の容貌はともかくとして、11年ぶりの新作は、渋かった。
周防監督といえば、品の良いコメディというイメージだったのだが、
いつかは甘くなるだろうと思った柿は、結局最後まで渋いまま。

痴漢冤罪事件については、以前新聞によく取り上げられた事もあり、被疑者に対する理不尽な容赦ない扱われようは、聞いてはいても、やはり見ていて胸が切なくなる。

被疑者を演ずる加瀬亮は、『硫黄島からの手紙』でも、運の悪い憲兵くずれの兵隊をやっていたが、この作品でも、おっとりしているようで変に意固地な性格が、すべて悪い方悪い方に出ている。

また、小日向文世が、煮ても焼いても食えない、鵺(ぬえ)のような裁判官を見事に演じている。こんな人ホントにいそうで、背筋がぞっとする。

だが、数々の災難はあっても、この被疑者には応援してくれる親や友だちがいるし、頼もしい弁護士の存在もある。

もし私が何らかの冤罪に巻き込まれた場合、味方になってくれる友が果たしているだろうか?
「う〜ん、あの人ならやりかねませんね」などと逆に言われそうだ。

そんな訳で、あらためて、家族や友人は大事にしよう。

周防

 

 

 

 

 

 

九州国立博物館のそばには、あのとびうめ太宰府天満宮がある

平日にも関わらず、多くの参拝客で賑わっていた。

散策していて気づいたのだが、今回は、やたら外国語が飛び交っている。
特に、中国人と韓国人の社員旅行と思しきグループが目立つ。

まぁ高速船「ビートル」に乗れば、釜山〜福岡を3時間で行けるのだから、中韓の裕福層には、絶好の観光エリアだろう。

菅原道真公は、遣唐使の廃止を進言したことで有名だが、そんなことを知ってか知らずか、中国人のグループが老若男女、境内の前で楽しそうに記念撮影をしていた。

もちろん道真公は、当代一の中国通でもあった訳で、その十数年後に唐は滅びるのである。

さて、藤原時平らの陰謀により、道真公は901年の1月25日、大宰府に左遷される。

「こちふかば にほいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

当時は旧暦なので、この歌を詠んだ季節は、今の2月の終わりか3月の初めくらい。梅の見ごろの時期だったと思われる。

そして2年後の死。

今天上では、道真公と藤原時平が仲良く、酒を酌み交わしているかもしれない。

みっちゃん『あの時はひでぇことをしやがった』

ときちゃん『面目ねえ。今でもすまねぇと思っているよ』

みっちゃん『でも貴様のお陰で、あれから千百年たった今も、学問の神様として崇めたてられているんだ。気にすんなって』

ときちゃん『笑・・・』

菅原道真公に怨念は似合わない。

やがて飛梅もほころぶだろう。飛梅

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  鈴木「プライスコレクション」で、ひときわ印象に残った作家に「鈴木基一」がある。

実は、この名前、博物館で観て初めて知った次第。

お恥ずかしい。

「酒井抱一」の一番弟子だそうだが、師とはかなり趣が違う。

『三十六歌仙図色紙貼交屏風』

古典を愛し、風雅でおっとりした師に対して、弟子はすべてが斬新で躍動感に溢れている。

「酒井抱一」が名門に生まれ、天性の優美さとたおやかさを備えた美青年であるならば(つか、顔は分んないけど)、裕福ではないが、絵の情熱やみ難く、才能だけを頼りに成り上がっていった野生児が「鈴木基一」というのは言いすぎだろうか。

彼の『柳に白鷺図屏風』

今にも屏風の外に飛び立ちそうな白鷺と柳の絶妙さ!師の絵にはこんな理知的なところがない。
師は情緒的な文系、弟子は理系なのかもしれない。

suzuki

 

 

 

 

 

 

九州国立博物館の『プライス コレクション』には、若冲の他にたくさんの優れた作品が展示されている。

私がまず惹かれたのが、長沢芦雪。nagasawa1

この「白象黒牛図屏風」の、あっけらかんとしたおとぼけ加減を見よ。

屏風からはみ出している、白象さんと黒牛君。
そのそばで、白い小動物と黒い鳥が「な〜んちゃって!」と言ってるようだ。
象さんなんてこりゃ明らかに手抜きだよ、芦雪くん。

 

さて、打って変わって「牡丹孔雀図屏風」

nagasawaこの孔雀の羽の一つ一つの緻密でなんと美しい事か。

思わず見惚れて、しばらくの間、立ちすくんでしまった。

芦雪の他の作品、例えば「幽霊図」や「猛虎図」らも個性的だ。

「猛虎図」なんて私の目には、虎の鷹のハーフに見えてならない。

個性派ぞろいのプライスコレクションの中でも、やんちゃ坊主の芦雪は、長寿が多い日本画家としては異例の44歳の若さで亡くなっている。

絵を描くのが楽しくて楽しくて仕方がない。きっと彼はそんな風に、短い一生を駆け抜けたのであろう。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャクチュウ1まだ1月なのに、大宰府の飛梅が匂いそうな暖かい日、その天満宮の近くにある「九州国立博物館」で、『プライスコレクション 若冲と江戸絵画絵画』を楽しんできた。

ジョー・プライスというアメリカの一青年が、なぜ、若冲の絵にのめり込んでいったのか、何が彼を惹きつけたのだろうか、その謎を知りたかったが、自分のように絵画の素養のない者に、分るだろうか。

先ず、「葡萄図」

プライス氏の人生を激変させた作品の前に立ち、私にも何か変化があるかなと期待したが何もなかった。まぁ当り前か。

若冲にしてはおとなしい作品だと思う。でも蔓や葉の一つ一つが生き生きしている。

若冲というと派手な色彩や大胆な構図が思い浮かぶが、彼の真骨頂はこの生命力というか、躍動感なのだろう。

「紫陽花双鶏図」
かなりデフォルメされた鶏だが、その表情がただ者ではない。
とさかのポツポツまで克明に描かれたその顔は険しく、若冲自身の激情を表しているようだ。

そして「鳥獣花木図屏風」
実はこれ、私の中で想像が勝手に膨らみ、まるでゴーギャンの描いたタヒチの絵のようなトロピカルな、かつ巨大なものと思っていた。

実物は思ったより大きくなく、ところどころ色も落ちていて、多少くすんでいるようにも思えた。

もちろんガッカリなどしていない。逆にああ、これは日本の絵だな、としみじみ感じた。

象、アシカ、バク、火の鳥などなど、日本にはいない、あるいは架空の動物たちが派手な色彩で描かれていても、そこに描かれているのはまぎれもない日本の情景だ。

平面的でおだやかな表情で佇んでいる動物達を見て、横にいた家族連れの3歳くらいの女の子が「ぞうさんやらいおんさんやおさるさんがなかよくしてるね〜」と喜んでいる。

ここの動物たちは他と違い、躍動的というより、静謐で時が止まっているような印象だ。

若冲は、極楽浄土としてこれを描いたのかも。

それにしてもこの中の「火の鳥」手塚治虫の漫画そっくりだ。つか、手塚氏が参考にしたのかな。

さて、私にとってはキャパシティの大きすぎた絵画展。

一回ではとてもとても書ききれないので、これから少しずつ感想を書いていこうと思う。

ジャクチュウ

先日、FMラジオの音楽番組に、ギタリストでプロデューサーでもある野村義男氏がゲストで出演していた。

その番組では、ゲストの愛聴している名盤を紹介しているのだが、彼の好きな音楽が、まるで自分と同じで、思わず「お前は私か!」と突っ込みながらも、久しぶりにラジオの音楽を堪能した。

山下達朗、Char、ジェフ・ベック、キッス、マイケル・ジャクソン、ビージーズなど。

特にマイケル・ジャクソンの名盤「オフ・ザ・ウォール」を称賛しているのには、さすがよっちゃん!と感激した。

大抵の音楽通でも、マイケルの代表アルバムを『スリラー』と信じ込んでいる。なんと愚かな事か、あれはただのダンスミュージックである。
「オフ・ザ・ウォール」こそが、ソウルの名盤なのだ。

さて、かつてはたのきんトリオのよっちゃんも、42歳。自分も年をとる訳だ。でもロックへの情熱は消えていない。

リアルタイムの今のロックも聴いているし、ライヴにも行きたい。でも。

長時間のオールスタンディングはやはり辛い。ライヴ中は、麻痺していて感じなくても、3日後あたりにどっと疲れが来るのが悲しい。

夏フェスにも参加したいと思うのだが、あの暴力的な日差し、熱気を思うと二の足を踏んでしまう。

思うに、70年代ロックの洗礼を受けた、中年ロックファンは潜在的に多いはずだ。

そんな人たちが、気後れすることなく楽しめる場はないものかどうか思案に暮れるのだが、一つ期待していいことがある。

以前何かのアンケートで、団塊の世代に「定年後やりたいことは」の問いに、「音楽をやりたい」と言う人がかなり多かったのだ。

彼らはビートルズ世代。日本の社会を牽引してきたおにいさん、おねいさんたちに頑張ってもらって、ロックの世界でも道標を作ってもらおうなどと、他力本願的な思いをしている。

 

 

 

 

 


17

「勝ち組」「負け組」なんて言葉が広まったのは、いつ頃だろうか。

多分『負け犬の遠吠え』という本がヒットし、ホリエモンを始めとする若手起業家が出てきた時期からだろう。

だが、「勝ち組」の生活って、画一的で何だかつまらない。「負け組」の人生の方がバラエティに富んでいて面白そうだとおもう事自体、負け犬の遠吠えだろうか。

さて、『リトル・ミス・サンシャイン』という映画を観た。

登場人物たちは、絵に描いたようなダメ人間ばかりだ。

自己啓発の本を出版しようと躍起になっているが、実は破産寸前の父、毎晩ディナーに、ファーストフードのフライトチキンを出す母、素行が悪くて老人ホームを追い出された祖父、9ヶ月誰とも口を利かず引きこもっている息子、それと、ホモの相手に振られ、自殺未遂を起こした叔父さん。

ある日、8歳の娘が、少女を対象にしたミスコンに出ることになり、家族総出で、中古バスを借り、コンテストのあるカリフォルニアまで旅に出かける。もちろん、旅費を節約するためだ。

この末娘、オリーヴが何とも可愛い。
そんなに美人ではないし、眼鏡をかけ、お腹のポコンと出た幼児体型だが、笑顔が愛らしい。

そして、ジョンベネちゃん紛いの、こまっしゃくれた女の子たちが出場するミスコンで、彼女は異彩を放つのである。

オリーヴ以外も、みな魅力的な人たちばかりだ。

問題のある家族だからこそ、みな勝手なことを言いつつも、お互いを思いやり、悔しさを分かち合い、本音で行動する。

久しぶりに良い家族ドラマを見させてもらった。

「負け組」も悪くない。171

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の、明治・大正・昭和初期の007小説を読む時気になるのが、『お手伝い』の存在である。

実際は『女中』と呼ばれていたが、当時、中流以上の家では『女中』と呼ばれる女達がいないほうが珍しかったらしい。

冷蔵庫も洗濯機も無く、便利なスーパーやコンビニは夢の話、自分の手で水を汲み、火を起こして煮炊きしなければならない時代、彼女達は貴重な存在だったのだろう。

例えば、石川達三著『幸福の限界』という作品を見てみる。時代は終戦間もない昭和21年。
登場人物の家族構成は、会社員の夫、専業主婦の妻、事務員をしている次女、学生の長男。

取り立てて金持ちの家庭ではないし、妻は家事上手だ。特に女手が必要とは思わないが、この家にも女中がいる。

そしてこの家の主婦、女の幸せは何かとか、「主婦」とは性を伴った女中に他ならないのか、なぞと考え悩むくせに、自分の家の女中に対してはずい分ぞんざいな扱いをしているのが可笑しい。

さて谷崎潤一郎の作品、『台所太平記』を読んだ。こちらは女中に対して温かい。

これは谷崎本人とおぼしき男が、二番目の妻を娶り、お嬢様育ちの妻のために、たくさんの女中達を雇い入れ、そのおびただしい女達と過ごした歳月を描いたものだ。

多くの女達が貧しい家の出なのだが、皆生き生きして個性的だ。

きっと谷崎家の人たちが愛情深く、女達を受け入れたからだろう。

それにしても女中を雇うのは大変だ。
皆年頃の娘ばかりだし、間違いがないよう細心の注意を払わなければならない。

病気になった娘を大病院に連れて行ったり、縁談があれば奔走し、里帰りをする時は着物や餞別を持たせる。我が子より手がかかっている。

だが、苦労ばかりではない。時々お気に入りの女中を連れて、銀座や関西の名所、熱海を散策し、食事をしたり、また娘達に書を教えてやるのが、谷崎の楽しみだったらしい。

それにしても谷崎潤一郎は、女の細かい所作をよく観察している。

『痴人の愛』や『細雪』を読んでも思ったのだが、和服や洋服の流行、小物などいやに詳しい。

年端のいかない女中達の生態も、好奇心たっぷり。まるでTV番組『家政婦は見た』の男版みたいだ。

もしかしたら、谷崎氏は精神構造が『おばはん』なのかもしれない。

台所太平記

 

 

 


 

7

今年になって、初めて映画を観た。
タイトルは『ラッキーナンバー7』

チープな邦題にもかかわらず、思いがけず素晴らしい作品で、ニコニコしながら映画館を後にした。新春から映画運が良い。

主人公のジョシュ・ハートネットを始め、ブルース・ウィルス、ルーシー・リュー、モーガン・フリーマン、ベン・キングスレー、スタンレー・トゥッチという実力派勢ぞろいのクライム・ムービーだ。

先ず、作品が分りやすい。
冒頭から、伏線が張り巡らされているのだが、特に目を凝らさなくても、後からああ、あれの事か、とすぐ分る。
私自身、最初の方はうつらうつらしながら観てたのだ(確かに前半はちょっとダルイ)

R15指定で、血生臭い映像が多いのだが、なぜか登場人物が皆、とぼけた味で、ユーモアに溢れている。

特に主人公役のハートネットが、のんびりしたお人良しの青年を好演しており、それが後半の思わぬ展開で利いてくるのだ。

それとルーシー・リューが可愛い。
こんなに、表情、仕草、声などチャーミングだったとは気づかなかった。

そんな訳で、たくさんの人が殺されているにも関わらず、見終わった後、殺し屋さんが天使に見えてしまうのだから困ったものだ。ラッキー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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