ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2007年03月

香水先日観た映画『パフューム』の印象忘れがたく、ついに原作本を読むことにした。

本を手にとるまで知らなかったのだが、作者は、パトリック・ジュースキントというドイツ人。ちなみに訳者は、ドイツ文学者やエッセイストでおなじみの池内紀さんである。

ページをひもとくや否や、おびただしい腐臭の描写に辟易する。

出てくるわ出てくるわ、パリの臭い、ゴミ、汚物、腐った魚や野菜、人々の汗や体臭・・・・。

だが不思議なもので、強烈な臭いに鼻が麻痺するように、悪臭の描写も、時間がたつにつれ、平気になってくる。

それにしても、ドイツ人が、パリの街をかように、臭い臭いと言うのは、いかがなものか。

私自身、「ブス」や「ババァ」となじられるのは平気だが、「くさい」と言われるとかなりへこむ。何か自分の人格を否定されたような気がするから。

フランス人からは、クレームはなかったのだろうか。

さて、原作のグルヌイユは、映画版に比べてはるかに悪魔的で冷血な男だ。まるで恐ろしい毒虫が、人間に姿を変えて現れたような。

そう、この本はグルヌイユという昆虫が生まれて死ぬまでの話なのだ。

長いさなぎの時代を耐え、やっと栄光をつかむや否や、あっと言う間に消滅していくそのあざやかさ。

その有様に恐怖を感じつつも、そのひたむきな一途な姿に、なぜか羨望の目を向ける自分がいるのだった。

香水―ある人殺しの物語

 

 

 

 

 

 

 


 

ホリディ今話題の映画『ホリデイ』を観た。

キャメロン・ディアス、ケイト・ウィンスレット、ジュード・ロウ、ジャック・ブラックと、いずれもピンで主役を張れる豪華メンバーばかりだ。

クリスマスの直前、失恋した2人の女性、ロンドンとLAに住むアイリスとアマンダは、偶然インターネットで知り合い、お互いの家や車を交換し、それぞれの休暇を過ごすことになった。
そこで新しい恋が芽生え・・・・というロマンティックコメディである。

実は恋愛物が苦手な私は、この作品を、英国対アメリカ、俳優対決として観る事にしたのだが、その結果は・・・・。

英国の勝ちィー!

何といっても、ケイト・ウィンスレット、彼女が良い。

この人、あの「タイタニック」の頃から、きれいだがどこか垢抜けない印象が否めなかった。顔立ちが古風美人だからだろうか。

歴史的なコシチューム物はぴたりはまるのだが、現代物だとどうもダサくなる。

でもこの作品ではそんな彼女の個性が良い方に出ていた。

ケイト演ずるアイリスは、ロンドンの雑誌の編集者。
3年間同僚の男性に片思いし、その彼に振り回されあげく、手ひどい裏切りを受ける。まるで、「ブリジッド・ジョーンズの日記」そのものだ。

そして1人、傷をいやしに、アメリカはLAに旅立つのだが、最初のうち話し相手は近所に住む90過ぎのおじいさんだけ。

本来だったら、「こんな美人の編集者なのに、誰も相手がいないの?」と思うのだが、ケイトが演ずると、さもありなんと実感してしまう。

こういうタイプの女、意外といるんだよね。美人で性格も良いのになぜか男運が悪い。お人よしが徒になっているのか。

金持ちのアマンダのお屋敷で、大はしゃぎするところなども、いかにも田舎者っぽくておかしい。

ジャック・ブラック扮する音楽家と知り合い、2人で寿司バーで食事をしていると、音楽家の恋人から電話がかかり、彼が出て行くシーン。

1人、ぽつんとお寿司のカウンターにたたずむケイトの後姿は、まるで日本のうだつの上がらないOLそのものだ。

私としては、ジャック・ブラックよりも近所に住む90過ぎの元脚本家のおじいさんと恋仲になって欲しかった。

そんなとんでもない事を仕出かす天然さも、ケイトはあわせ持っている。

そんな訳で、やはり大英帝国は不滅なのである。ケイト

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

西原初めて、「漫画家・西原理恵子」の実物の写真を見た時の驚きを忘れない。

「何てきれいな人なんだ、話ちがうじゃん!」

昔、「週間朝日」の『恨ミシュラン』で、暴力的で右脳飛びまくりの西原の画風に圧倒され、すっかり夢中になった。
そして、理路整然としたコラムを書いている相方の神足氏に対して、「これじゃ勝負にならないよな」と同情したもlのだ。

さて自虐的な絵からして、たぶん作者はスゴイ人を想像していたのだ。
(だって当時の女性コラムニストって、ナンシー関とか、ナンシー関とか)
だが、「週間朝日」に載っていた写真は楚々とした美女であった。そしてどことなく不幸を身にまとっている感じがした。

人は見かけによるものである。

なぜ彼女は、自分を偽悪的に描いているのか。

この人は幼い頃、実父を、少女時代に養父を亡くし、かなり複雑な青春時代を過ごしている。

そんな彼女にとって、華やかな生活、身に余る栄耀栄華というものは、居心地の悪いものなのだろうか。

その後も連載中の雑誌が次々と潰れたり(マルコポーロ、UNO!)とか色々あったが、最大の不幸は、やはり元夫のカメラマン鴨志田氏の死であろう。

りえぞう

一男一女に恵まれたが、夫のアルコール依存症による暴力などが原因で離婚。その後、夫が腎臓がんになってからは、再び一緒に暮らすようになったが、先日、3月20日に亡くなった。

毎日新聞に掲載されている「毎日かあさん」をみるにつけ、気配りの出来る、いい母さんなんだろうなと思うが、不幸の香りはもうおしまいにして、これからは貪欲に幸せをつかんで欲しい。

 

講談社文庫 最後のアジアパー伝
酔いがさめたら、うちに帰ろう。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、訳あって友人と、映画『ナイトミュージアム』を観に行った。

夜ごと博物館の展示物が生き返る、というファンタジーコメディ。

始めのうちは退屈で寝そうになったが、後半からだんだん盛り上がって来て、最後は疲れた中年二人組でも意外と楽しめた。

確かに子供向きの作品ではあるが、クオリティーは高い。世界史を習い始めたこまっしゃくれたガキなんか喜びそう。

さて、こうなると本物の博物館に行きたくなってきた。

そこで久しぶりに地元の『いのちのたび博物館』に行ってみる。

04今、ちょうど「始皇帝と彩色兵馬俑展」をやっていたが、映画がここの博物館じゃなくてホントに良かった。
中国の春秋・戦国時代の兵馬らが夜な夜な暴れ始めたら大変なことになる。しかも同館には世界最大級の「セイスモザウルス」ほか多くの恐竜もいるのだ。

だが一番怖いのは、やはり中国、劉邦の妻、呂太后だろう。どうかこの人だけは、蘇らないでほしい。

さて、兵馬俑展を見ていたら、家族連れで来ていた3歳くらいの男の子が、突然大声で泣き出し母親にしがみ付いて動こうとしない。

どうやら重い歴史の雰囲気を、敏感に感じ取ったのだろう。
確かに兵馬俑展なんて所詮は、昔の人の墓あばき。この男の子はなかなか見所がある。02

この子がもう少し大きくなったら、ぜひ吹き替え版の『ナイトミュージアム」を見てもらいたいものだ。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

429ちょっと前の事だが、先週月曜の夜、NHKで『小椋佳・63歳のメッセージ』を見た。それ以降、私の頭の中で彼の曲が、壊れたプレーヤーのように繰り返し流れている。

たまらず曲を聴こうと思うが、小椋佳は、LPレコードしか持っていない。
聴こうにもプレーヤーは数年前に処分しているし、レコード自体10年以上、ジャケットから出していない、つか出すのが怖い。

そんなわけで近くのレンタルショップで彼のCDを借りてくる。大好きな『彷徨』が聴きたかったのだが、ベスト集みたいなのが一枚しかない。あまり需要はないのか。

そして聞いてみると、アレンジも、昔知っているのとは違い、ちょっとがっかりしたが、歌声はまごうことなき、あの「小椋佳」であった。

じっと目をつぶって聴いてみる。甘く切ないメロディ、歌詞、そしてあの声。懐かしさで心がいっぱいになる。

これ以上はない、完璧な世界に身も心もゆだね、時が過ぎるのも忘れていた。

そしてふと、気がついた。

私にとって、彼の音楽は「温泉」なんだ。

優しく悲しみを湛えた音楽に、裸になって横たわる。
ポジティブ・シンキングなんてくそくらえだ。ひたすらこの温かな世界にひたっていたい。

曲でいえば、「シクラメンのかほり」や「俺たちの旅」は伊豆のシャレたリゾートホテルの、「愛燦燦」は、有名老舗旅館の、「夢芝居」は別府の猥雑な温泉街、「木戸をあけて」や「ほんの二つで死んでいく」は、名もないひなびた露天風呂の温泉だろうか。

などと夢想しているうちにふと、自分が今、思考停止しているのに気づく。

これはいかん。

そういえば小椋圭の曲には悲しい思い出しかない。
さびしい時、つらい時、彼の音楽で気を紛らわせていたからだろう。

生暖かい世界にひたっていては成長はない。

小椋佳は、年に一度、身も心も疲れきった時だけ、聴く事にしよう。

そして、歯を食いしばって音楽を消した。

彷徨

 

 

 

 

 

 


 

ANA

 

 

 

 

 

 

今日は仕事が休みだったので、午前中家で、NHK番組『知るを楽しむ』の再放送、「不肖宮嶋の、白瀬中尉の南極探検シリーズ」を見ていた。

白瀬中尉が、天候不良のため、一旦南極上陸を諦め、オーストラリアでテント生活を始めたという場面で、突然テレビ画面が変わり、NHKアナウンサーが映った。

なんでも大阪発、ANAプロペラ旅客機の前輪が出ないため、今から高知空港で、緊急胴体着陸をするとの事。

そして画面は高知の空に変わり、件のプロペラ機が、雲ひとつない青空の下、白鳥のように、たよりなげに漂っている。

他のチャンネルを見たが、どこもこのニュースはやっていない。今の所、NHKだけのようだ。急に胸がドキドキしてくる。そして不快感。

思いがけずライブショーを見られる事に喜んでいる、自分に対する嫌悪感だ。

そしてそれを煽るようなNHK。なにも番組を中断して放送しなくても、とりあえずはテロップだけでいいではないか。いつからNHKはこんなに仕事が速くなったんだ。

着陸の瞬間は見たいが、もし最悪な結果を生で見てしまったら・・・・。

そうこうしている内に時間は過ぎ、不安と嫌悪と期待でまぜこぜとなった私とは正反対に、ANA機は、冷静沈着に見事なランディングを見せてくれた。

ありがとう機長。私がお礼を言う筋合いはないのだが、もし大事故になっていたら、かなり落ち込んでいたことだろう。

どんなすごい生映像でも、やはり人の命が関わっているのはダメだ。

別にこれは私が心優しい人間だからではなく、へたれなだけだ。

普段は人の悪口が生きがいのような人間なのだから。

そんなわけで、宮嶋氏のような報道カメラマンは尊敬に値するなぁ。

ところで、カットされた再放送分はどうなるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「池波正太郎」と言うと、粋だがちょいとうるさい江戸っ子親父のイメージがある。

池波この人の書いた時代小説やエッセイを読むたび、その観察力の鋭さや美意識の高さに、思わずうなったものだが、和服姿の写真が多く、おこぜのような(失礼!)容貌も相まって、どうしても白髪の老人を連想してしまう。

だが、氏が白血病で亡くなったのは67歳。今の加山雄三より若い。
あの名著『食卓の情景』を週刊朝日に連載し始めたのだって、昭和47年。まだ50前だ。

この円熟味はどこから来るのだろう。

さて、池波正太郎の新著のエッセイ集『おおげさがきらい』を読んだ。

これは、池波氏の、まだ本になっていないエッセイ250編の中から5冊、本として収録したもので、これはその1作目である。

ここには、まだ30代、作家となって間もない時期の池波正太郎の姿がある。

正直、読んでいて物足りない。

『食卓の情景』以降の、あの旨みのたっぷり沁みこんだエッセイに比べると、味付けが足りず淡白だ。

例えれば、後期のエッセイ集が年代物のワインならば、この『おおげさがきらい』は、ボジョレヌーボーのような味わいか(つか、ワインの味、あまり分んないけど)

でも、今の私の歳よりはるかに若い池波青年が、ひたむきに仕事に向き合い、家族を愛し、戦前戦後の苦難を生き抜いていく姿には、心打たれるし、やがて、あの大作家になっていくのだと思うと、まるでタイムマシーンで過去をのぞいているような不思議さを感じる。

そして気がついたのだが、あの円熟した親父の気風は30代のころから、徐々にではあるが、芽生えているようだ。

ところで、親父といっても、実生活では、池波氏には子供はいない。
だが、妻や母親からは「おとうさん」と慕われていたそうだ。

なんとも味わい深い話ではないか。

おおげさがきらい

 

 

 

 


 

先日、職場の友人が、九州国立博物館の『若冲と江戸絵画』げを観に行った。

その翌日の会話。

こぢ『あの象と牛の屏風絵、良かったやろ』
友人『へっ、そんなのあったっけ。それより、あの群青色の川を扇子が流れているのが良かった』
こじ『あれ、そんなん知らんよ。それよか孔雀の尾の長い奴、好きやったあ』
友人『そんなのなかったよ、あ、達磨図が迫力あった』
こぢ『だるま、あったっけ〜』

あとで調べたら上記の作品は、前期後期ともちゃんと展示してあったのだ。

まったく好い加減と言うか、自分の好みのものはしっかり見るが、そうでもないのはあっさり忘れている。薄情な奴だ。

さて、九州のプライスコレクションも3月11日まで。なごりに、もう一度観に行く。

平日の寒い日なのにお客はかなり多い。人の頭の間から作品をのぞいていたら、後ろの方で関係者らしきスーツを着た男性が2人、話している。
『いやぁ、このプライスコレクション、大成功ですなぁ』
『京都から引き続いてこれですからね』

壁に耳あり、障子にブロガー、人の多い場所で、あまり仕事の話は、しない方がよろしいかと・・・。

さて、今回は若い観客が目につく。3月で学生が春休みに入っているせいだろうか。カップルも多い。

そしてこのカップル(学生も熟年夫婦も)だが、女性が質問し、男性が答える場面にしばしば出くわす。

女『ねぇ、どうして○○は○○な絵を描いたの?』
男『それは○○だからだよ』
女『へぇ、そうなんだぁ〜』

男の方は明らかに嘘八百というか、てきとーな事を言っているのに、女は感心してうなずいている。

これが上手く行くコツなのか。

そういえば若い頃、デートで美術館などに行っても、彼に質問したことなんてなかったなぁ。

ちょっぴりほろ苦い気持ちで、江戸絵画に別れを告げ、表に出ると、空を名残り雪が舞っていた。

き

以前、貴志祐介著『黒い家』というミステリー小説を読んだ時、こんなくだりがあった。

いわく、情緒欠如者と診断された犯罪者の中には、生れつき嗅覚障害の人間が多い。
一説によると、赤ちゃんの頃、母親の体臭や乳の匂いなどを感じとることができなかったため、感情の正常な発達が阻害されやすいためとか。

そしてこの作品に出てくる連続殺人犯は、明らかに嗅覚障害であった。

もちろん嗅覚障害でも、正常に社会生活を営んでいる人が殆どであろうが、確かに「匂い」というのは、その人の情緒を左右する。

さて、『パフューム』という映画を観た。

この物語の主人公グルヌイユは、上記とは逆に、悪魔的な嗅覚を持つ、情緒欠如者である。

時は18世紀のパリ。

パリといえば、こんな小話を聞いたことがある。

「ローマ法王がパリ市民におふれを出した。曰く、『一生に3回は、お風呂に入るように』」

一生に3回となると、まず産湯が1回め、2回目めは結婚初夜の日だろうか、とすると3回目は亡くなった時の湯灌か。

「花王」や「TOTO」など立ち入る隙もない世界だ。

そんな悪臭漂うパリの魚市場で、グルヌイユは産み棄てられた。

腐臭の中で育った彼は(彼にとっては懐かしい匂いなのかもしれないが)やがて天才パフューマーへと成長していく。

彼と、師となる調香師バルディーニ(ダスティン・ホフマン)のやりとりが面白い。

73.2弟子の天才ぶりに驚愕し、自分の無能さを悟られまいとオドオドしている平凡な師バルティーニ。

もはや弟子の才能に嫉妬する気力もなく、ただただ重荷に感じている。

だから、グルヌイユが旅立った後の、バルディーニの晴れ晴れとした表情は印象に深い。ダスティン・ホフマンはやはり名優だ。

そしてグルヌイユ。香りを追求している姿は、とても幸福そうだ。

だが究極の香水が完成した時、その幸せは崩れる。

彼は悟るのだ。自分には心がない、人を愛する事が出来ないと。

どんなに、世界中の人々が、ひれ伏すような香りを作っても、肝心の自分に人を愛する心がなければ空虚なままだ。

そんなわけで、グルヌイユ君。今度生まれ変わったら、香水作りはおやめになって、警察の鑑識にでもなって下さい。

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