ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2007年08月

河童2ビミョー』というのは、実に便利な言葉だ。

ハッキリ返事が出来ない時、自信がないとき、
「ちょっとビミョーなのよね」と言えば、何となく先延ばしがゆるされる。

だが人間はともかく、野性の河童はこの言葉は理解できないだろう。

そういえば『河童のクゥと夏休み』というアニメ映画の中でも、主人公のお父さんが、家族に「今年の夏休みの予定は〜」と責められて、「仕事がビミョーなのよね〜」と答えていた。

さて、このアニメ映画、最近の萌えアニメと違って、大変写実的だ。

もちろん映像は大変美しい。特に、主人公、小学生の康一と河童のクゥが、岩手県の遠野の川で、泳ぎまわるシーンは秀逸である。
だが、
登場人物などは、あえて可愛く描こうとはしておらず、いたってあっさりしている。

そして私が惹かれたのが、康一とその家族。特にお父さんが良い。

河童がやって来たことに、だれよりもワクワクしている。仕事が忙しい中、家族への思いやりも忘れない、ちょっと気が弱そうだが味のあるお父さんだ。そして当然のようにクゥを受け入れ、淡々と暮らしている家族。

河童が来なくても、この一家だけで、一本映画が出来そうだ。

そして河童の描写。

頭のお皿がかわくと弱り、きゅうりが好きで川が好き。
なぜか人間の言葉(江戸時代の百姓ことば)をしゃべる。

まるでコテコテのステレオタイプの河童だ。

彼が好きなものは死んだお父さん、夢は仲間と自然の中で暮らすこと。

そんな単純な河童に比べて人間界のなんと複雑なことよ。

クラスでみんなから苛められているのに、表情も変えず涙一つ流さない女の子。その彼女が気になるのに、なぜか「ブス!」と言ってしまう康一。河童がいる康一を羨ましく思うあまり仲間はずれにする同級生。

その康一が夏休み、岩手の遠野へ、河童のクゥと旅に出る時、なぜかひそかに涙ぐむお母さん。
クゥを大事に思いながらも、会社の取引先に頼まれ、テレビ出演をひき受けてしまうお父さん。

みながそれぞれ複雑な思いを抱えている。

だが、クゥと付き合ううちに、みな少しずつ、その複雑さから解放されていく。

反面、クゥは礼儀正しく人間社会に耐えてきたが、段々限界に近づいてくる。

そして最後、康一の家族は、クゥのためにある決断をするのだ・・・・。

見終わった後、クゥちゃんよりも、悩みつつも最善の選択をした康一家族の暖かさが、いつまでも心に残った。

河童1

 

 

 

 

河童のクゥと夏休み

 

世界最速のインディアン』という映画DVDを観た。

インディアン知的なイメージのアンソニー・ホプキンスが、世界記録を目指す実在の老レーサー、バート・マンローを演じるのだ。これは見ものだ。

物語のクライマックスは、バイク・ライダーの聖地、アメリカのボンヌヴィル大塩原でのレースなのだが、そこにたどり着くまでの珍道中が面白い。

このバート・マンローという63歳のおじさんだが、バイクの腕はもとより天性の愛嬌と言うか、どんな人も味方につける不思議な魅力の持ち主なのだ。

早朝からのバイクの騒音に悩まされている隣人も、敵対している暴走族らしい男たちも、結局は彼の魅力に負け、最後は応援するはめになる。

初めて訪れたアメリカでも、出会う人出会う人、すべてが彼に協力的だ。そして数々の困難も、彼の不思議な「魅力」で乗り切ってしまう。

「なんかこの感じ、覚えがあるな〜」と考えたが、思い出した。

『クロコダイル・ダンディ』である。

バート・マンローはニュージーランドからやって来た「ダンディ」なのだ。

そして、最初はバカにしていた人たちが、段々彼に魅了され、応援していく姿には、映画『クール・ランニング』を彷彿させる。

そういえば彼のバイク “インディアン”は形がボブスレーに似ていて、またぐのではなく、バイクにうつぶせになって走る。

しかもスタート時には仲間から押してもらわないといけない。

白い大塩原を風を切って走る姿は、氷上のボブスレーそっくりだ。これはかなり度胸がいる。

だが彼は怖がらない。足がマフラーの熱で火傷しようが、突風でゴーグルが飛ばされても、めげない。

金なし、家族なし、病気持ち(狭心症、前立腺肥大)の年寄りは、度胸と愛嬌で、夢を叶えるのである。

世界最速のインディアン スタンダード・エディション

 

 

 


 

桜の国今でこそ、『PTSD』や『トラウマ』など、よく使われているが、そんな言葉の存在さえなかった戦時中、空襲で家族や家を焼かれた人々、
ましてや「原子爆弾」という、全く予想もつかない恐ろしい体験をした広島や長崎の人たちの、心の苦しみとは、いかばかりだっただろうか。

夕凪の街 桜の国』という映画を観た。

まずエンドロールの間、観客誰一人席を立たなかったというのは、久々の出来事だ。

この物語は2部構成をとっており、まず広島に原爆が落ちて13年後、皆実という26歳の被爆女性の話から始まる。

父や妹、そして多くの人が焼け死んだのに、自分は生き残っている・・・
皆実はそのことに罪悪感を持っており、職場の同僚、打越から愛を告白されても、それを受け入れることが出来ない。自分は幸せになってはいけないと思い込んでいるのだ。

だが、彼女は、ついに打越に胸の苦しみをすべて告白する。

「生きとってくれてありがとう・・」

打越の言葉に、涙にくれる皆実。

夕凪の街しかし、それは束の間の安らぎであった。
彼女の体は原爆の後遺症で、もう余命いくばくもなかったのだ。

不思議な事に、原爆症の病状がはっきり出てきてからの皆実には、今までなかった、安らぎの表情がうかがえる。

「やっと私もみんなのところへ行ける」「重荷から開放される」

力ない目は、死を夢見ているようだ。

だが、彼女はただの薄幸の女性ではない。

今わの際に彼女はつぶやく。

「なぁうれしい? 13年もたったけど、原爆落した人は、私を見て『やったー、また1人殺せた』て、ちゃんと思うてくれとる?」

か細くて、触れなば落ちん風情の皆実から出てきた、思いがけない言葉に唖然となった。

この物語に出てくる人たちは皆優しいが、時に残酷な言葉も吐く。

皆実の母が、自らも被爆者でありながら、息子が近所に住む被爆経験のある女性と付き合っているのを知り

「あんたヒバクシャと結婚するとか」「お前を可愛がってくれた伯母さんに顔向けできん」と、なじる。

優しさだけでは生きてはいけないのだ。

さて、第2部は、平成19年の今。

母親になじられていた息子(皆実の弟)の娘、七波が主役である。

ここでは「被爆2世」の問題が出てくる。

七波もその弟も、母や祖母が原爆の後遺症で死んだらしいことはうっすら感じているが、親に聞いた事はない。

親は教えてくれないし、子供も、聞くのがためらわれるのだ。

だが2人とも年頃、弟は子供の頃から原因不明の喘息に悩まされており、漠とした不安に包まれながらも、表面上は呑気に暮らしている。

やがて彼女は、最近の父の不穏な行動を見張っているうちに、彼らの思いがけない過去を知るのだ・・・・。

七波を演ずる田中麗奈が良い。

彼女の真摯な眼差しは、幸福から逃げてきた皆実にはない力強さがある。

それが、ウェットになりがちな物語を明るく引き締めてくれる。

そして彼女なら、親世代が背負った不幸でさえ大らかに受け止めてくれるだろう。

多くの広島や長崎の被爆2世3世の皆さんが、力強く生き抜いているように。

夕凪の街桜の国

 

 

 

 

 

 

 

 


 

今から10年以上前、大阪に行った時、エレベーター駅のエスカレーターにて、人が皆右側に立ち、左側を急ぐ人のために、キチンと空けているのを見て感心したものだ。

「さすが大都会大阪。みんな忙しいのね。乗ってる時ぐらいゆっくりすればいいのに」

そう思ったのも束の間、今じゃ私の住む地方の小都市でも、「左側立つ人右側登る人」が決まり事になっている(らしい)。

先日、エスカレーターの事故で足を大怪我された女性も、左側に立っていたようだ。

事故とは全く関係ないかもしれないが、左側若しくは右側に荷重がかかり過ぎるのは、構造上よくないのではないだろうか。

エスカレーターの事など分らない私だが、元々これはステップに立ち止まっての利用を前提にしていると思うし、荷重だって左右同じ方が機械の負担も少ないだろう。

これからは右側、左側など分かれず、好き好きにすれば良いのではないか。

もし急ぐ人がいれば、『すいません、急いでますので』と声をかければいい。99パーセントの人が、片側を空けてくれる筈だ。

もし空けてくれない人がいたら、大喜びでブログのネタにすればいい。

つか、本当に急ぐのなら、階段を駆け上がるのが一番確実で安全だと思うが。

 

 

 

 


 

DVDで、ドイツ映画『善き人のためのソナタ』を観た。

時代は1984年の東ドイツ。

まず注目したいのが、主人公ヴィースラー大尉を演じたウルリッヒ・ミューエ。

この人旧東独出身の俳優なのだが、先月の22日に胃癌で亡くなっている。享年54歳。

なんと彼は、東ドイツ時代、女優である妻によって10年以上も密告され、国家保安省に監視され続けてきたのだ。

ベルリンの壁が崩壊した頃は36,7歳か。
つまり結婚して間もない頃から、ずっと密告され続けたことになる。

なんという壮絶な生活だろう。

『善き人のためのソナタ』において彼は、自分とは反対の立場、国民を盗聴・監視し、少しでも反社会主義であればしょっぴいて尋問する、体制側の官吏役を演じている。

彼にとってこの役は、精神的に辛かったのではないか。
ストレスで命を縮めたのでは、と余計な事を考えてしまう。

東ドイツ出身のメルケル首相も、この映画のチケットは買ったが、観るのが辛くて、直前にキャンセルしたと語っているのだから。

さて、観てまず印象的なのが、主人公ヴィースラー大尉の、愚直とも言える忠誠心と、殺風景な心象風景だ。

出世や自分の欲望は一切なく、ただ社会主義のため国家保安省の盾として、黙々と任務を遂行する。

だが、アパートに帰れば、飾り気のない部屋で1人、ご飯にケッチャップのようなものをかけて夕食を済ませるような生活。

そういえば彼らの食生活は貧しい。社員食堂で食べるお昼ごはんも、スープとお茶だけだ。エリートの彼らでそうなら、一般の国民はもっと貧しかったに違いない。

そして、劇作家と女優の情事を盗聴した後、彼は、自分のアパートに安っぽい娼婦を呼び、やがて彼女が帰ろうとすると、「もう少し一緒にいてくれ」とすがりつく。彼の心の空虚さははかり知れない。

だが件の劇作家の盗聴を続けるうちに、彼の中で少しずつ変化が起きる。やがて彼は思いがけない行動をとる・・・・。

正直、映像は暗く、重苦しい雰囲気の漂う作品だが、ラストの主人公の表情には救われた、心からホッとした。

う〜ん、最初の意見撤回。

ウルリッヒ・ミューエ。やはり彼はこの作品に出て、満足して逝ったに違いない。

 

 

 

 

 


 

 

 

あれは平成初めの頃だったろうか。

俳優の竹中直人は今、レーザーディスクで、リュック・ベッソン監督の映画『グレート・ブルー』を観るのに凝っているという記事を読み、当時、レーザーディスクを持っていた私は、
「ああ確かに、ワイド画面であの美しい映像を観たら、病み付きになるだろうな〜」

と思いつつもなぜか『グレート・ブルー』のディスクを買わなかった。

たぶん竹中氏ほどの凝り性でない私は、映画やビデオで充分観たからと思ったのだろう。

そのうちLDは、AV機器の淘汰の中で、ベータービデオと同じ運命を辿るのであった。

さて、久々に『グレート・ブルー』もとい、『グラン・ブルー』を観た。

『グラン・ブルー』は『グレート・ブルー』にプラス50分の未公開映像を加えたもので、題名からしてオシャレさんだ。

だが、どうも私はこの3時間以上ある『グラン・ブルー』は馴染めない。

もちろん私自身に集中力が足りないと言うのもあるのだが。

物語は、実在のフリーダイバー、ジャック・マイヨールをモデルとしたもので、ジャックとエンゾという幼なじみでライバルでもあるフリーダイバーと、ニューヨークのキャリアウーマン、ジョアンナ。この3人による不思議な友情が美しすぎる紺碧の海と共に繰り広げられる。

海と、男2人に女1人の友情というと、フランス映画『冒険者たち』を彷彿させる。どちらも純粋で、泣きたいほどに美しい。

このドリカムともいえる三角関係だが、時と場合によって常に2対1なのがいい。
(大人)エンゾ・ジョアンナ対(子供)ジャック
(潜水バカ)ジャック・エンゾ対(いい加減にせい)ジョアンナ
(恋人同士)ジャック・ジョアンナ対(ちょっぴり焼もち)エンゾ

微妙なバランスで成り立っていた3人の友情は、1人の死によりもろくも消え、そして残った2人の選んだ道は・・・・・。

男、女、海、ダイビング。

シンプルなこの物語に、冗長な未公開映像が必要だっただろうか。

例えば、初めてジャックがジョアンナと結ばれる場面、『グレート・ブルー』では、いかにもおずおずとジョアンナに抱かれる彼だったのに、『グラン・ブルー』では、いつのまにか床上手になっちゃって、自分から積極的に腰を動かしているシーンにはちょっとガッカリした。

また『グレート・ブルー』で、ジャックがジョアンナにイルカの写真を見せ「これがボクの家族さ。こんな家族ってある?」(彼は子供時代に親をなくしている)
と、さめざめと泣いていたのに、『グラン・ブルー』では「ボクの伯父さんなんだ」といって嬉しそうに、ジョアンナに、お茶目な伯父さんを紹介している。
おいおい、あんた、天涯孤独の身の上じゃなかったのかい。あの男泣きはなんだったんだ?

やっぱこういう作品はシンプルなのが一番ですね。

それにしても、シシリー島で、潮風を浴びながら、マンマのパスタを食べてみたいなぁ。

 


 

 

 

 

 

 


 

門司の出光美術館にて『青磁の美』を観てきた。

日中気温35度を越す暑い日だったが、美術館に一歩入ると、ひんやりとした出光空気があたりを満たす。

それは冷房のせいだけではなく、陶器の不思議な清々しさが、現実の暑さを忘れさせてくれるからだ。

青磁といっても色は微妙である。
唐の越州窯は、くすんだオリーブ色、宋代になると黄みがあり、時代によって、明るくなったり暗くなったり。

でも、非現実的で、神秘的な雰囲気は変わらない。

昔、中国の人たちが金銀より珍重したという玉(ぎょく)。
これを焼き物で再現しようとしたのが青磁といわれる。

食器もたくさんあったが、私は青磁の器に食べ物を盛って出されても、のどに通りそうもない。
そういう日常的な所作に、これらは似合わないのだ。

トルコの王様が、青磁の大皿に料理を盛っている絵があったが、あれはスルタンだから許されることだ。

この器に似合うのは、たとえば妙薬入れ。
秘伝の不老不死の薬を、青磁の壺に入れて王様に献上すると、きっと霊験あらかただろう。

あるいは仏具。

厳かでそれでいて清々しい青磁は、灰をいれる香炉にピッタリだ。

おっと、そういえばもっとふさわしいものがある。

それは、骨壷。

神秘な青にくるまれて、静かに眠りにつく・・・・。

よし!今度、使っ・・・・・・・。

ああ、こんな不謹慎な事ばかり考えている私は、たぶん誰よりも先に、骨壺の住人となるであろう。

香炉

 

 

 


 

朝青龍以前、毎日新聞に載っていた著名人らのスポーツに関してのコラムで、蓮見重彦の話が面白かった。

曰く、
「日本人は、スポーツが嫌い」というのが、私の持論だ。

確かに、例えば今年の早慶戦は、神宮が満員になったが、ほんとうに大学野球が好きで観戦した人はどれくらいだろうか。

ハンカチ王子目当ての人が多数いたはずだ。

ハニカミ王子にしても然り(それにしてもセンスのないネーミングだ)

だが、私は蓮見さんは間違っていると思う。

「日本人はスポーツが嫌い」ではなく、「日本のマスコミは、スポーツが嫌い」なのだ。

嫌いだから当然、そのスポーツの素晴らしさを、人々に伝える事が出来ない。

だから、華のある選手、絵になりそうなアスリートを見つけると、芸能タレントのように持ち上げて、スポーツに対する自らの知識不足、力不足をごまかそうとする。

そして持ち上げる時も凄いが、落す時はもっと凄い。

さて、スポーツではないが、今回の朝青龍に対するマスコミの、容赦のないバッシングには、心底呆れてしまう。

確かに横綱は悪い。お灸をすえるべきだ。

だが、減給の他に、2場所休場、出稽古も禁止というのはいかがなものか。

彼は4年半、異国の地で、1人横綱で頑張ってきた。

やっと新横綱もうまれ、琴光喜も大関になった。俺も肩の荷が下りた。ここらでゆっくりしたい・・・そんな気持ちだったのではないか。

故郷モンゴルで、子供達とサッカーに興じている映像が繰り返し流されたが、めったに見ない、あの無邪気な笑顔に、日本ではいかに緊張を強いられた生活をしているかが偲ばれた。

もちろん悪いことは悪いのだから、処罰は必要だが、今回のは、まさに引退勧告のようではないか。

彼のスピード感のある動き、小柄でありながら天才的な取口。
それらが2場所も観られないのは、相撲ファンにとって残念だ。

マスコミは彼の魅力的な取口を知らないから、あんな無責任なバッシングが出来るのではないだろうか。

多くの相撲ファンは、今回の朝青龍に対しては
「朝の奴、バカな事しやがって。とりあえず今回は謹慎して、じっくり反省するこったな」
ぐらいだと思う。

今、朝青龍に必要なのは優秀な通訳もしくは、ブレーンだ。

巡業が角界にとってどれだけ大切なものか、そして日本社会と馴染むには何をし、何を慎んだら良いのか、的確なアドバイスをしてくれる人をつけるべきだ。

そして休場後、来年の初場所、圧倒的な強さで優勝し、マスコミと日本相撲協会の鼻をあかして欲しい。

 

 

 

 

 

 


 


先日アイルランド関係の映画のDVDを2本観た。

『ギャング・オブ・ニューヨーク』と『麦の穂をゆらす風』だ。

『ギャング・オブ・ニューヨーク』は、大英帝国の圧制に加え、ジャガイモ飢饉から逃れるため多くのアイルランド移民がやってきた、19世紀中頃のニューヨークの物語である。

やがて、彼らの子孫からは、ハンサムな大統領も生まれるが、9・11テロで、多くのアイルランド系の消防士が犠牲になった。

さて『麦の穂をゆらす風』は、20世紀初め、第一次世界大戦が終った頃の物語だ。

英国の締め付けや飢饉にも負けずに生きのびてきた、アイルランド人の暮しは貧しい。
ボロボロの家、粗末な身なり、食べ物はお粥のようなものをすすっている。
英国軍の厳しい取締りで、集会や言論の自由も認められていない。あるのは美しい緑の大地だけ。

だがアイリッシュは逞しい。彼らは密かに義勇団を作り、あくまで抵抗を続けているのだ。

しかし英国は、もっとしたたかだ。

第一次世界大戦に疲れきった英国は、アイルランドと休戦条約を結ぶ。

しかしその内容は、アイルランドは名目上英国に従属し、英国王に忠誠を誓わなければならないという。そして北アイルランドは英国に帰属される。

この条約の受け入れをめぐって、アイルランドは分裂する。
戦争を早く終らせたい人と、あくまで100パーセントの自由を勝ち取りたい人と。

このあたりの様子は、『マイケル・コリンズ』という映画でも描かれていたが、さすが7つの海を支配した英国。

敵を分裂させてお互い戦わせるつもりだったのだろう。

『麦の穂をゆらす風』のアイルランド同胞は、この企みに翻弄され、やがて兄弟や友人同士が殺しあうことになるのだ。

歴史に翻弄されながらも強く生きていくアイリッシュ魂に感動すると共に、やはり英国は手強いな。


 

 

 

 

 


 

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