ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2007年11月

写真最近拙ブログの内容が「映画」ばかりで、これじゃ「活字中毒」じゃなくて「活動写真中毒」だな、とか思ったりするのだけれど、もちろん本は読んでいるのだ。

ただあまりに乱読で、読み止しのまま別のジャンルの本に手を出すという具合で、計画性のないことおびただしい。

さて、最近やっと本棚を整理し、途中まで読んで中断しているのを集めてみた。

あるわあるわ、『金閣寺』(三島由紀夫の代表作品)  『罪と罰』(ドストエフスキーの代表作品)  『雪国』(川端康成の以下同文)  『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(塩野七生女史の傑作) 『華麗なるギャッツビー』(フィッツジェラルド。村上春樹絶賛) 『人民は弱し 官吏は強し』(星新一の渾身の作)など他多数・・・・・・。

みな好きな作家であり、しかも名作いわゆる本流ばかりなのに。

コンビニで売っている怪しげなノベルズやハウ・ツーものは、あっという間に読みほしてしまうのに、名作に対するこのぐずぐず加減は何だろう。

いかに自分が読書に対して傍流であったかが分かる。

こうなったら今から年末までを、「読み残した本を完読しようキャンペーン」とし、読み切ってしまおう。

多少は知的になって新年を迎えたいものだ。

金閣寺

 

 

ブラックダリア』というサスペンス映画のDVDを観た。

原作はジェイズ・エルロイのベストセラー作、監督はブライアン・デ・パルマということでちょっと期待していたのだが、陳腐な内容で、期待はずれに終わった。

まぁ作品のでき不出来はともかく、気になったのは、主役の刑事役、ジョシュ・ハートネットである。

この人、私の興味ある映画に、しょっちゅう出てくるのだ。

『バージン・スーサイズ』(ソフィア・コッポラの名作) 『シャンプー台のむこうに」(佳作のイギリス映画) 『ブラックフォーク・ダウン』(戦争ものの傑作!) 『パールハーバー』(いかにもなアメリカ映画) 『モーツァルトとクジラ』(可愛い自閉症くん) 『ラッキーナンバー7』(胸のすく爽快感)エトセトラエトセトラ・・・・。

切れ長の目、端正な顔立ち。とても良い俳優だと思うが、なぜかブレイクしない。

ジョニー・デップやブラッド・ピットの後に続いてもいいはずなのに、何かが足りない。

大変な二枚目なのに「ウドの大木」といった感じ。

戦闘機乗りも、自閉症の青年も、刑事も、どんな役もこなすのだが影が薄い。

きっと彼は食べ物でいえば、お米(それもササニシキ)なのだろう。

主役、準主役を毎回こなし、結構な大作に出演しながらも、騒がれもず、マイペースで仕事をする。

ある意味、一番おいしいポジションにいるハリウッド俳優なのかもしれない。

 

 


 

 

 

モーツァルトとクジラ』というアメリカ映画のDVDを観た。

これは最近とみに話題になっている「アスペルガー症候群」、実は私もよくわからないのだが、「知的障害のない自閉症」らしい(「自閉症」自体、まだはっきり解明されてはいないが)

この症例を持つ男女が恋をする。だがこれがなかなか難しい。

彼らはいわゆる『空気が読めない』のだ。

女性は子供のころ、オリンピックをテレビで観ていた両親が「レコード(記録)が破れた!」と喜ぶのを見て、自分も褒められようと家中のレコード(を粉々に破ってしまう。

男性は、IBMの就職面接で『これからのプランは?』と面接官に聞かれ「ハンバーガーを買って家に帰ります」と答え、面接に落ちた。

きっと彼らの見える世界は、平面で奥行きがないのだろう。
だから彼らにとって世の中は、予想外の言葉が行き交う不条理な世界なのだ。

男性にとっては、数学のみが自分を裏切らない味方であり、女性はモーツァルトの音楽がそれだ。

この2人、一見普通に見えるが、それがまた苦悩の元なのだ。

以前『学校』という日本映画で、軽度の知的障害者が担任の先生に『俺もA君(重度の知的障害者)みたいだったら良かった。そしたらこんなに苦しまなかった」と訴えるシーンがあるが、なまじ知的レベルがまともなだけにその苦しみは深い。

美しい平面の世界の住人である彼らにとって、この世の中は複雑すぎる。

それにしてもこの映画の中で、男性の職業はタクシーの運転手、女性は美容師だったのが気になった。

どちらとも、一般人でも難しい人の心を読む仕事ではないだろうか。

私自身、空気を読むのが苦手なので、彼らの苦悩は他人事ではない。
モーツァルトとクジラ

 

 

ユトリロ初めてユトリロの絵を見たのは、いつだったろうか。

たしかカレンダーに描かれた白っぽい家がそうだと思う。

重く立ち込める空とくすんだ家の壁と、同じくねずみ色の石畳。

沈鬱で暗い絵なのに、なぜか私の心を惹きつけた。

さて、先日福岡県立美術館の『ユトリロ展』を観にいった。

折りしも、ユトリロの『白の時代』を思わせるような、どんよりした曇り空の日だった。

『白の時代』と比べて『色彩の時代』の頃の作品はいまいち人気がないようだが、私は『色彩の時代』の鮮やかな絵も、可愛らしくて好きだ。

特に腰の張った女性の後姿。解説によればユトリロの女性嫌悪の表れとのことだがそうだろうか。とてもユーモラスに見えるのだが。

女性といえば、ユトリロの生涯は、母親と妻に支配されるがままの人生だった。2人とも商魂たくましくしたたかだ。

ユ2とくに51歳の時に結婚した妻、リュシー。

夫に水で薄めたワインを飲ませ、絵を描け、絵を描けとせっつく。

そして人気のあった『白の時代』の絵を模写せよと命じ、ユトリロの絵1枚に自分の絵(妻も絵を描くらしい)2枚を抱き合わせて売りつけたりとあこぎの限りを尽くしている。

でも、彼のようなアルコール中毒者で半ば人格破綻者には、この鉄壁の防波堤のような妻は、ふさわしかったのかもしれない。

昔、「あられちゃん」や「ドラゴン・ボール」のメガヒットで長者番付の常連だった漫画家の鳥山明氏が、家ではいまだにお母さんからお小遣いをもらっていたという話を聞いたことがある。

世の中とは、金勘定が得意な人と、まったく出来ない人の2種類でまわっているのかもしれない。
中途半端のその他大勢は、黙ってるしかないのか・・・。ユ3

 

 

 

子供のころ(というか、今もだが)親戚の集まりというのが苦手だった。

特に法事が終わった後、男たちが酒盛りをしている傍らで、コタツに集まってする、女同士の四方山話が怖かったのだ。

彼女らの饒舌さ、たくましさ、地に足の着いた強さに圧倒され、私はいつも皿洗いや親戚の子のお守りを口実にその場から逃げていた。

自分も女でありながら、女同士の仲間に入れない、かといって男性的な性格でもない、私は出来そこないの人間のように思われた。

さて、ペドロ・アルモドパル監督の映画『ボルベール<帰郷>』を観た。

この映画も怖い。まず濃いすぎる。

この監督の映画はいずれも癖が強いのだが、今回はより激しい。まるで原色の濃縮ジュースのようだ。

そして主役のペネロペ・クロス。あまりに美しく色っぽすぎる。

そのため周りの登場人物がかすんで見える。

特にスペイン系の女性は美人とそうでない人の差が、極端すぎる気がする。

びっくりするほど美しい人がいるかと思えば、パースを間違えたような造形の顔立ちの人もいる。それがこの映画の雰囲気をより濃くさせているのだ。

さて、物語はペネロペ・クロス演じる主婦ライムンダの娘が父(つまりライムンダの夫)からレイプされそうになり、娘が逆に父を殺してしまう事件から始まる。

そしてライムンダは娘のため、父の遺体を隠す。

これだけでも大事件だが、実はこれはほんの前菜に過ぎない。

話が進むにつれ、女たちの秘密、そしてしたたかさが明らかになっていく。そして思う。やはり女は怖い。

それにしてもペドロ監督は男でありながらよく女の生理がわかるものだ。

見終わった後、悪酔いをしたような気分になるが、しばらくするとまた観たくなる。不思議な媚薬のようだ。

 

 



 

 

 



 

私は戦争映画が好きなのだが、最近特に気に入っているのが、『ジャーヘッド』そして、『ブラックホーク・ダウン』だ。

前者は湾岸戦争、後者はその一年後のソマリアが舞台で、どちらも名もなき若きアメリカ兵士たちが主役だ。

「ジャーヘッド」では、やる気満々の戦意高揚たる兵士が、結局実戦で一度も銃を使わないまま、戦争は終わる。
そして、「ブラックホーク・ダウン」では、30分で終わるはずだった作戦が長引き、敵味方両方に、数多くの犠牲者を出すのだ。

さて、ベトナム戦争以降、アメリカは見えざる敵と戦ってきた。

これら二つの戦争もそうなのだが、まだ湾岸戦争は「サダム・フセイン」という絵に描いたような「悪役」がいる。
だが、「ブラックホーク・ダウン」のソマリアには、明確な敵はいない。

映画の中で将軍がいみじくも言ったように「ソマリアはイラクよりも複雑なのだ」

アメリカ兵を襲う民兵も、死んだ米兵を引きずり回した暴徒も、彼らを出迎えてくれた住民も、お水を運んでくれる軍の召使も、皆、ソマリア人なのだ。

「一体何のために戦うのか」

リアルでかつ美しい映像(残酷な戦闘シーンを美しいというのも変な話だが、でも事実なのだ)の中で、兵士らの脳裏に去来したものは何だろう。

デルタフォースの精鋭である軍曹はこう言う。
「俺は仲間のために戦っているのだ」

そういえば、この戦いでは、米兵は敵を倒すことより、いかに負傷者を救出するかに重きをおいているようだ。

映画の中で、重傷の若い兵士が友人に「俺の両親に、勇敢に戦ったと伝えてくれ」と頼み、友人が「そんなの自分で言えよ」という、戦争ものでよくあるシーンがあったが、なんとも切ない。

第二次世界大戦の対ドイツ軍や日本軍との戦争ならば、彼の両親も心ならずも納得するだろうが、このソマリアの地で、仲間を助けようとして犠牲になった息子の死を、どう認めるのだろうか。

仲間同士、励ましあい、助け合う彼らは美しいが、そんな態度、ソマリア兵にしてみれば不遜でしかありえないのだ

ジャーヘッド プレミアム・エディション

 

 

 


 

 

 

 

 

『ヘアスプレー』というミュージカル映画を観た。
1960年代、ボルチモアのハイスクールを舞台にした、ハッピーなダンス映画を単純に楽しもうと思っていたのだが、さにあらず。

いきなり映画の冒頭で『ボルチモア大学、黒人の学生を拒否』という新聞の見出しから始まり、う〜ん、これは一筋縄ではいかないなと感じる。

観終わった後、楽しさの中に一抹の寂しさが残った。

これは華やかなりし白人文化が消えていく物語なのだ。

庭のある広い家、頼もしいパパ、美人のママ、金髪の可愛い子供たち・・・。やがて女の子たちは髪をカールし、ドレスを着てパーティーへ。男の子はアイビールックで、スポーツカーに乗って女の子をエスコートする・・・・。

そんな昔の白黒映画で見たアメリカ文化がやがて消えていくのだ。

この映画の中では、まだダンスフロアは、ロープで仕切られていて、白人と黒人が一緒に踊ることは許されていない。

これを突き破ったのは、オデブの女の子、トレーシーだ。

なぜダンスの上手い太った女の子が、根強い黒人偏見を軽々と乗り越えたのか・・・。

それは多分、彼女もまた、マイノリティーだからだ。

彼女とそのママ(ジョン・トラボルタが怪演!)は、ずっと、太っていることで笑われ、いわれのない差別を受けてきた。

でもその中で逞しく生き抜いてきたトレーシーには、知らず知らず、偏見に寄らない、クールな視線を持つことができたのだろう。

振り返って今。

太っている人に対しての差別はますます酷くなっているように感じる。

メタボ検査はやめてほしい。

ヘアスプレー

 

 

 

 

 

 

 

 

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