東京では桜が満開とのことだが、九州の某地方都市は、やっと五分咲きだ。
都市温暖化の中、いやでも日本列島に春が巡ってくる。
さて、私は、このすべての植物が萌え出ずる春が苦手である。
生ぬるい風。どんよりした空気。この時期いつも体が重く陰鬱になる。
2003年4月1日、香港のマンダリンオリエンタルホテルで飛び降り自殺をした俳優、レスリー・チャン(張國榮)も、春が嫌いだったのだろうか。享年46歳。
彼の葬式の映像が、テレビやインターネットで流れたが、それは異様なものだった。
当時SARSが大流行だったため、マスクをつけた一万人以上のファンが、雨の中彼の死を悼んでいた。
去年、風邪の特効薬タミフルが問題になった時、もしやレスリーも、と思ったが、当時タミフルが香港で市販されていたかどうかは分からない。
結局重いうつ病が原因とのことだが、多くの人に愛されたレスリーの心のうちは誰も知らない。
不思議な男だった。40過ぎても肌はすべすべ、つぶらな瞳に反ったまつ毛は長く、憂いを含んだ表情は少年のようだ。
中国四千年の秘薬でも飲んでいるのではと思うほど、彼は年齢に見放されている。
そんなレスリーの代表作と言えば、やはり『さらば、わが愛/覇王別姫』だろう。
レスリーの役柄は、娼婦の子として生まれ、京劇の養成所で育てられ、そこの虐待ともいえる猛訓練に耐え、劇団有力者の性的虐待に泣き、やがて女形のトップスターになる程蝶衣。得意の演目は『覇王別姫』
蝶衣は、幼馴染でもある京劇の相方、段小楼を愛していたが、この男、とんでもない凡庸なやつで、蝶衣の激しい愛を受け止めることが出来ず、行き場を失った愛は、蝶衣自身の心を傷つける。
蝶衣よ、もっといい男を選べよ、と歯咬みするのだが、幼い頃、唯一自分に優しくしてくれた段小楼は、鳥のヒナのように刷り込みされていたのだろうか。
やがて時代は抗日運動から、日中戦争、文革へと流れ、芝居バカで世事にうとい蝶衣は、そのたびに傷つき、血と涙を流す。
それにしても、この映画の中のレスリーの美しさは神がかっている。
一番美しいと思ったのは、日中戦争時に日本軍の宴席で歌ったという事で、戦後、蝶衣が裁判にかけられるシーンだ。
汚れた服を身にまとい、警察のリンチで殴られたのか、顔は腫れ、うつろな表情で被告人席に立っている。
「彼は日本軍から拷問を受け、仕方なく歌ったんだ、彼に罪はない」という味方の証言に蝶衣は静かに答える。
「日本軍は憎い。でも彼らは私に指一つ触れなかった」
そして
「もし青木(日本軍の上官)が生きていたら、私は東京で京劇を舞うだろう」
愚かさは美の代りを成すものである。
損得を考えない蝶衣は、どんなきらびやかな衣装をまとった姿よりも美しい。
報われない愛に耐えた蝶衣はやがて愛に殉じ、それを演じた美しき俳優は永遠に年をとらないまま、春の空に消えた。