ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2008年04月

いきなり慎みのない話で申し訳ないが、先日イギリス映画『眺めのいい部屋』のDVDを観ていたら、劇中水浴びのシーンがあり、男3人全裸ではしゃぎまわっている姿に喜びもといビックリした。
 
もちろん男性器もばっちり。イヤラシさはみじんもなく、明るくユーモアにあふれていたが、映画を観終わった後、印象に残っているのが、E・M・フォースター原作、名監督ジェームズ・アイヴォリー監督、アカデミー賞3部門受賞の優雅で格調ある映像ではなく、男3人のオチンチンというのは全くもって情けない。
 
だが、ジュリアン・サンズ、ルパート・グレイブスという英国2大美青年のものを見せていただいて、まあ眼福というべきか(あともう一人はだれだろう)
 
さて、最近の映画は昔と比べて、ヘアや性器にぼかしを入れるのが少なくなった。自然な映像であれば特に修正はしないようだ。
 
例えば、ダニー・ボイル監督のバイオ・ホラー『28日後…』では主人公が長い昏睡から全裸で目を覚ますシーンで性器が見える。
これなどはいたってナチュラルだ。
 
また映画の中で、外見は女性に見える人物が実は、、という場合、性器を見せるのはストーリーの重要なポイントになる。
『トランスアメリカ』やニール・ジョーダン監督の『クライング・ゲーム』でそのようなシーンがある。
 
しかし、セックスシーンにおいては、露出を制限しているのが多い。特に日本ではそうだ。
 
そのため『ラスト、コーション』では随分ぼかしが多かった。
 
だが、この映画、中国大陸では大幅なカットや修正があったが、香港や台湾、アメリカ等では無修正である。
 
やはり「ぼかし」というのは、観客を子供扱いしているようで興ざめだ。なくすべきだと思う。
 
そうすれば、たかが水浴びのシーンくらいで動揺することもなくなるだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

憧れている都市の一つに、宮城県の仙台市がある。

 今だ行ったことがないので勝手な想像だが、涼やかでしっとりした杜の都というイメージなのだ。

ごみごみとした暑苦しい北九州などと比べ、整然と落ち着いて、さぞ学問などに打ち込むにはふさわしい場所かなとも想像する。

だれが犯人?さて、伊坂幸太郎氏の同名小説を映画化した『アヒルと鴨のコインロッカー』というDVDを観た。舞台は、その仙台だ。

仙台の大学に入学し1人暮らしを始めた椎名と、同じアパートの隣人との不思議な友情と、少しずつ明かされる思いがけぬ過去。

最初、隣人のセリフの棒読みに、「下手な俳優だな」と思ったのだが、途中でその理由が分かってくる。

伏線作りが絶妙で、観終わった後、思わずうなってしまったが、惜しむらくは、真相が分かるのが早すぎた。

もっとラスト近くで分かった方が、驚きが大きいと思うのだが、この物語はいわゆるサスペンスとは違うので、これはこれで良かったのかもしれない。

とても秀逸な作品だが、気になった点が2つある。

まず引っ越してきた椎名が、アパートの住人にお土産のお菓子を配るのだが、それが「吉野堂」のひよこなのだ。

「ひよこ」は福岡の筑豊飯塚が発祥の地で、福岡の銘菓だ。

東京から来た椎名がなぜ「ひよこ」を配るのだろうか。

コインロッカー単にスタッフの間違いか、それとも椎名のおっちょこちょいを演出するためか。

もう一つは、ある登場人物の言葉、「僕が外国人だったら君は相手をしてくれないだろう」というセリフだ。

他にも大学生やバスの運転手が、外国人に対して冷たい態度をとるシーンが印象に残っている。

私の住む福岡では、外国から来たということで、逆に人気者になることはあっても、そんなに冷たい扱いはされないと思う。

これは福岡人の持つ、新しいものをすぐ受け入れる進取の気質だろうか。

だが、福岡人は飽きっぽいところもある。

親切さや情の深さが長続きするかというと、そうでもないのだ。

逆に仙台の人の方が、最初は取っ付きにくくても、付き合いが長くなるにつれ、親交が深まるような気がする。

そんな訳で、これから日本に来られる外国人の方。短期留学だったら福岡、ゆっくり学問を修めたいのなら宮城県をお薦めする。

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

 

 

 

先日友人と雑談していた時、彼女がこんなことを言った。

「日本人って、花鳥風月、四季の移り変わりを昔から歌や詩にしてきたけど、『星』をテーマにしたのってあまりないよね」

むう、確かに「桜」などの花々、「月」や「夕暮れ」などをテーマにした歌や詩は多いが、「星」はあまり聞かない。

あんなに四季のうつろいに敏感な日本人が、星について関心を寄せないのはなぜだろう。

七夕伝説だって、中国のものだ。

振り返って西欧ではギリシャ神話に代表されるように星座にまつわる伝説や神話が多いし、東方の三博士は星占いで救世主の誕生を予言し、星に導かれてイエスを礼拝しに来る。

砂漠つらつら考えるに、中国大陸やヨーロッパなどの人びとは、長い間狩猟や放牧で生活してきた。
地図やコンパスのない時代、長い長い距離を馬やラクダで移動するのに、星の位置を把握することは必要不可欠である。

星に関心がいくのも道理だ。

それに比べ日本は農耕社会、長い距離を移動する必要はない。
旅といっても、江戸時代であれば、一生に一度か二度、お伊勢参りをするくらいだろう。

だが、たとえ旅をしなくても、夜空に瞬く星たちを眺めていると、月に負けず劣らず美しいのにぃと思う。

そしてこうも思った。

日本人は星があまり見えなかったのではないか。

元々遠くを眺める必然性のない民族に加え、目に良いとされるビタミンAやB類を含んだ食べ物、例えば牛、豚、レバーなどを食べる習慣がなかった。

かてて加えて、日本人の識字率の高さだ。鯨

それはつまり電気のない昔、薄暗いロウソクや行燈をたよりに書物を読んでいたということで、視力が悪くなるのは当然だ。

教養のある風雅人ほど視力が弱かったのかなぁと推察する。

ちなみに私、年寄りのくせに視力は両目共1.5。数年前までは2.0だった。無駄に目が良い。

満天の星を眺める幸せを感じながら、自分が風雅人でないことを残念に思うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

台湾映画『百年恋歌』のDVDを観ていたら、登場人物の住む台北の雑居ビルで、こんな看板を見かけた。

「一胎借款」「二胎特貸」「二胎」。。。。。

たぶんサラ金かなんかの看板だと思うのだが、「胎」という字が、妙に生々しく感じる。

中国語の教養がない私は、こんな些細な看板文字にも、反応してしまうわけで、まぁ逆にそれが楽しみでもあるが。

さて、肝心の映画『百年恋歌』(原題は『最好的時光』、字面的にはこっちの方が好きだ)は、名監督、ホウ・シャオシェン(候孝賢)の作品だが、私の目当ては主人公を演じるチャン・チェン(張震)だ。

この台湾の俳優は、眉目秀麗、端正な容貌ながら(美青年を形容する時、なぜか古文調になる)どことなくストイックで修行僧のようなたたずまいで、以前から気になっていたのだ。

物語は自由の夢オムニバス形式で、三つのストーリーがあり、まず『恋の夢』1966年。
兵役前に一度、ビリヤード場で玉突きをしただけの女の子を探して、台湾の田舎町を探し続ける青年。

なんともノスタルジックな雰囲気で、やっとの思いでめぐり会っても、お互い照れ笑いするだけでろくにしゃべろうともしない。

戒厳令下の薄暗い街、純情なカップルに、オールディズの名曲、「煙が目にしみる」「涙と雨」がとても切なく響くのだ。

自由の夢2番目は『自由の夢』1911年。辛亥革命前の話で、なんとサイレント形式。舞台は遊郭。私はこれが一番好きだ。

男は、台湾が日本の統治から自由になるのを夢に見ている、近代的理想主義の若き外交官。

女は芸妓。彼女は男から見請けされるのを願っているのだが、男は妾制度に反対しており、そのくせ彼女の義妹が見請されるのにお金が足りないと知ると、気前よくポンと大金を出したりする。

女が、妾に行く義妹に助言している内容がまた辛気臭いのだ。

「これからは早起きして向こうの舅や姑に尽くすのですよ。それから正妻さんにも礼儀正しくするように・・・・」

うわ〜、うっとうしい。そんな窮屈な生活より、遊郭でやり手ばばぁで過ごした方がよっぽど気楽じゃんと思うのだが、やはり妾であっても見請けされるのが彼女らの幸せなのだろう。

革命を夢見る男に女は言う。

「私の将来のことは考えて下さらないのですか」

優柔不断な男にとって爆弾級の言葉だ。

男は何の返事もしないまま、やがて辛亥革命を迎えるのである。

そして最後『青春の夢』2005年。

seisyunnnoyume前の2つが超まったりとした夢物語であるのに対して、これはいきなりバイクの轟音から始まり、男はカメラマン、女は歌手。

早産で生まれた女はいくつもの既往症があり癲癇持ちで、またバイセクシャルでもある。そして、そんな自分の姿をネットにさらしている。
男は彼女に興味を持ち、近づいていく。

この3番目はどうも好きになれない。

携帯、インターネット、依存症、レズ、トラウマ、なんか今更という感じの素材で、新鮮味がない。

それとも同じ時代であるが故の、近親憎悪的な不快感なのだろうか。

物語の中で歌手の女が、レズピアンの相手から、なぜ電話に出なかったの、なぜメールの返事がなかったの、となじられて、
「マナーモードにしてたの」「電源が切れてたの」と言い訳していたのには苦笑した。

今便利さと引き換えに、恋愛の形はどう変化していくのだろうか。

ホウ・シャオシエン監督 『百年恋歌』

 

 

 

 

 

 

 

古今東西、いわゆる英雄と呼ばれる男たちには、女好きが多いらしい。

もちろん、女房一筋の愛妻家もいただろうが、物語に出てくる英雄や革命家は、大抵、愛人を作ったり娼家通いをしつつ、天下国家を論じている。

彼らは、女を素人と玄人、都合よく分けている。

国を憂いながらも、一番身近な女の屈折に気がつかない、その鈍感さ、単純さには腹がたつもののなぜか憎めないのだ。

さて、ノンフィクション作家西木正明氏の『孫文の女』を読んだ。

西木正明本書は、「アイアイの眼」「ブラキストン殺人事件」「「オーロラ宮異聞」「孫文の女」4篇からなっており、明治初めから昭和にかけて、日本の歴史的な節目に否応なくかかわった実在の女たちの物語だ。

いずれも面白かったが特に興味をそそったのが、「アイアイの眼」の田中イトだ。

九州島原の貧しい漁師の子として生まれたイトは、口減らしのため16歳の時、シンガポールに向かった。
『サンダカン八番娼館』に代表される、いわゆる「からゆきさん」だ。

その後インド、そしてアフリカのマダガスカル島と流れ、そこでレストランの日本人経営者、赤坂と出会う。

イトの聡明さ、機転の良さに目をつけた赤坂は、今度ロシア海軍の軍人たちが客としてやってくるので、彼らから軍の情報をなるだけ聞き出してほしいと頼む。

心ひそかに赤坂を慕っていたイトは、彼女独特の方法で、けな気に役目を果たすのだ。

ちなみに「ラスト、コーション」での孫文像その数日後、日本の外務省の大臣室は、異様な緊張感に包まれた。

外務大臣小林寿太郎、斎藤実海軍次官、軍令部伊集院五郎等々、そうそうたるメンバーが、一通の長い電文をしかつめらしく見つめているのだ。

送ったのは軍令部の赤坂中佐。

そしてその2ヶ月後、日露戦争の命運を分けた日本海海戦で、大方の予想に反し、東郷平八郎下の連合艦隊はバルチック艦隊を叩きのめしたのだった。

その後、イトがどうなったのかは全く分からない。

さて、この4篇の物語に出てくる女たちは皆共通して美しく聡明だ。

そして物を見る目が透徹で、どことなく諦観している。

革命やスパイ活動に躍起になっている男に忠実に仕えながらも、彼女らは何ら浮かれることもなく、冷静に世の中を見据えている。

『オーロラ宮異聞』の中の、主人公お菊の言葉がいみじくもそれを物語っている。

ちなみにお菊は天草で生まれ、イトと同じくからゆきさんとして中国へ流れてきたが、張作霖の義兄弟、孫花亭と一緒になりやがて女馬賊満州お菊と呼ばれるようになる。

極端な話、お菊自身は、満州がどこの勢力圏に入ろうと関係ないと思っている。生まれ落ちてじきに朝鮮に売られ、漢城、新義州、奉天と、生きる場所を少しずつ北に移してきた。その間、ここがついの住処だなどと思ったことは一度もない。

 今身を置いている満州についても、ロシアの領土になるよりは、日本の影響下にあるほうが、なにかと便利だろうとは思う。そのいっぽうで、自分のような者にとっては、それすらもどうでもいいと思えてしまうのだ。

支配者が誰であろうと関係ない。

もし自分がそこでやって行かれないような状況になったら、さっさとおさらばして、どこか他の土地で生きていくだけだ。

『孫文の女』に出てくる女たちは、地に足のついた生活を望みつつ、そしてそれが叶えられないと知りつつも、けなげに男たちを支えている。

今も多くの「孫文の女」たち(一部男も)が光の当たらない場所で、歴史を支えているのだろう。

孫文の女

 

 

 

 

バターがない。

食品スーパーを回っても品切れだ。

今日、やっと新しくオープンした大型スーパーでそれを見つけたが、案の定、1人1個限りとの制限あり。

mori去年の終わりぐらいから、お菓子作り用の無塩バターが品薄になってると思っていたが、とうとう日常使うバターも姿を消し始めた。

原因はこちらのようだが、06年、生乳が供給過剰のため大量に捨てられる事態なり、それをうけて減産に踏み切ったが、今度は中国などで乳製品の需要が高まり、またオーストラリアの干ばつなどもあり、一転生乳不足になったらしい。

それに加え、クリスマス、バレンタインなどでバターの多量消費もあり、品薄は当分続くようだ。

乳牛を増やしても、乳が出るまで2年かかるし、また供給過剰になったら、生モノだから、生産者のダメージも大きい。

まぁ消費者はしばらくガマンするしかないようだが、しかし、うん10年、朝食はトーストとコーヒーの身としては、大変つらい。

マーガリンは美味しくないし、第一、マーガリンに含まれるトランス脂肪酸は心臓疾患のリスクを高めるといわれている。

パンの値上げが思ったほどではなく、ホッとした矢先のこの事態。

ああ、ちびくろサンボのようにバターをたっぷり使ったホットケーキが食べたいよ〜。

niwa

 

 

 

『Cut』という月刊誌の4月号で、「恋愛映画ベスト30という特集をやっていた。

栄えある1位はウディ・アレンの『アニー・ホール』で、2位はゴダール監督の『勝手にしやがれ』とのこと。

実は『アニー・ホール』は観たことがない。
ウディ・アレンの映画は、2,3本観た記憶はあるのだが、ほとんど印象に残っていない。

それだけ自分は、感性が乏しいということだろう。

夜さて、私個人の恋愛映画ベストを考えてみると、どうしても1位に来てしまうのが、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『ブエノスアイレス』だ。

南米アルゼンチンのブエノスアイレスで過ごす香港のゲイカップルの話が、なぜ究極の恋愛映画になるのか自分でも理解できないが、この作品によって、私はあきらかに心をかき乱され、冷静さを失った。

まずこの同性愛のカップル、ファイとウィンだが、もの凄くかっこ悪い奴らなのだ。

歳の頃は30過ぎでもう若くはない。普通の男なら職を持ち家庭を築くべき年齢なのに、今だにブラブラとまともな仕事にも就かず、お互い痴話げんかを繰り返しては、くっついたり離れたりの日々。

挙句の果てに、2人「やり直す」ために香港のま裏、南米のアルゼンチンに行くのだが、地図もろくに読めない彼らはドライブ中、道に迷い、またケンカしてしまうという体たらく。

2人の住む場末のアパートは、赤や緑のどぎつい装飾に彩られ、センスのカケラもない。

ブエノスアイレスやぼったい古着をまとった彼らの顔は、どす暗くよどんでいて、わざとそんな照明をしているのか、常に顔色が悪い。

だが、そんなダメな、どうしようもない彼らだからこそ、狂おしいほどいとおしく、抱きしめたくなるのだ。

世界中から見放されたような2人が、アパートのうす汚れた共同キッチンで抱き合ってタンゴを踊る時、その陶酔感は、彼らだからこそ享受できる悦びなのだ。

だが、そんな蜜月も束の間、2人は再び深刻な争いをする。

原因は、レスリー・チャン扮するウィンが、今の現状に満足しているのに対し、トニー・レオン扮するファイは、「いつまでもこのままではいけない」と内心あせっており、でもウィンとは離れたくない、出来れば彼を独占しブエノスアイレスのバスたいと願っているからだ。

やがて矛盾した心のせめぎ合いが彼の心をイラつかせ荒れていく。

そんな生き地獄のようなファイの前に、ひとすじの蜘蛛の糸のように現れたのが、台湾から放浪の旅に来ていた青年、チャンだ。

チャンに導かれ、ファイはやがて「生還」を果たすのである。

そしてファイに去られた後のウィン。

チャン・チェン古い毛布を抱きしめ、まるで母鳥から捨てられたヒナのように大泣きする姿には胸が詰まる。

彼は世界の片隅でこれからたった1人、どうして生きていくのだろう。

そしてラスト、

永らく映画を観てきたが、これほど胸のすく、清々しいラストシーンはない。

この一瞬のために、1時間30分が費やされたのだと思うほどだ。

なんだか支離滅裂な文章になってしまったが、「恋愛」はいつも、人の心をかき乱し、冷静さを失わせるものだから仕方ないか。

ブエノスアイレス

 

 

 

 

3月22日、台湾の選挙により、国民党の馬英九氏が新総裁になった。

今後中国に対して融和策をとっていくようだが、さじ加減が難しいこの問題を馬氏がどう対処していくか。

さて、私はといえば、台湾についての知識は、甚だ怪しいものである。

この際、きちんと勉強したいが、お堅い歴史書をひも解くのも辛い、そこで困ったときの司馬遼太郎センセ、という訳で、
司馬遼太郎著、「街道を行く、『台湾紀行』」を読んでみた。

いや楽しかった。氏と一緒に極彩色の暖かい台湾島を旅しているような、幸せな時間を過ごさせてもらった。

あまりに楽しいので、読み終えてしまうのが惜しく、半分過ぎたところから、また最初から読み返すという、セコイ読書をしてしまった。

ちなみに司馬氏が台湾を訪れたのは1993年1月。それが初めての台湾というのに驚いた。もっと何度も訪れていたと思っていたから。
そして亡くなったのだが1996年だから、氏にとって最後の海外紀行である。

とにかく『台湾紀行』には、魅力的な愛すべき人たちがたくさん登場する。

李登輝、鄭成功(国姓爺)、児玉源太郎、後藤新平などの有名人以外にも、新旧、台湾人日本人問わず、登場人物はみなよい意味で少年らしい可愛らしさがあり、また一方で奥さんは大変だったろうな、とも思う。

特に大正時代、台湾の嘉南平野で、大掛かりな潅漑工事を行い、地元では「嘉南大圳」と呼ばれる水利構造を作った日本人技術者、八田興一のエピソードには、思わず涙がこみ上げ、折悪しく列車の中だったので、こらえるのに大層苦労をした。

だが優れた設備や工事は、優秀な技術者だけでは出来ない。

当時日本でもまだなかった最新の上下水設備や潅漑工事などを、莫大な予算を使って台湾で行ったのは何故だろう。

昔の日本では、家族は狭い部屋で寝ているのに、客人には立派な客間でもてなす、という風習があったが、台湾もそんな「客人」扱いだったのだろうか、それとも日本のすごさを見せ付ける天狗の鼻だったか。

さて、登場人物でもう1人、田中準造氏という元新聞記者の話も面白い。

この人は統治下の台湾で生まれ育ち、ガジュマルの木の下で、家族と幸せな少年時代を過ごした。

やがて敗戦になり、彼は小学校最終年を父の故郷、鹿児島で過ごすのだが、薩摩弁がさっぱり分からない。

台湾時代、標準日本語を使っていた彼は、日本に帰るとまるで外国語を学ぶようにして薩摩弁を身につけた。

そして彼は中学のころ、田舎の映画館でジャン・ギャバンの映『望郷』を観、大泣きしたのだ。

刑事に追われているジャン・ギャバンはパリっ子だが、アルジェリアの首都アルジェのカスバで逃亡生活を送っている。
故郷に帰りたくても帰れない。

パリからやって来た女に出会ったとき、永遠に帰れない身の上を嘆き、激しい望郷の念にさいなまれるのだ。

ジャン・ギャバンにおけるパリが、田中準造氏にとっての台湾だったのだ。

そして少年は田舎道を泣きながら、「いつか時代が良くなれば必ず帰れる」と自分で自分をなぐさめるのだった。

温和で親日家が多いともいわれる台湾。

複雑な時代の波を乗り越え、これからどんな舵取りをして行くのだろうか。

街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)

 

 

 

 

 

 

映画『マイ・ブルーベリー・ナイツ』金髪を観終わった後、無性に同じ王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『恋する惑星』を観かえしたくなった。

初めてこの映画を観た時の衝撃は忘れられない。

斬新でスタイリッシュな映像、音楽、そして独特の台詞回し。

中国返還前、活気あふれる香港の街を舞台に、前半は失恋した刑事と金髪の麻薬ディーラーの女との不思議な出会い。そして後半はその刑事の行く食べ物屋の女店員フェイとやはり失恋した警察官との恋のすれ違いを描いている。

koisuruwakusei無国籍な街で、刑事役の金城武は謎の金髪女に4か国語(広東語、日本語、英語、北京語)で話しかけ、店員フェイは気が向けばいとも簡単に海外へ旅立つ。

失恋した男たちの独り言、数字へのこだわり、ある意味村上春樹チックなこの世界で、登場人物たちは活動的で食欲も旺盛なのに(つかいつも何か食ってる)生活臭がなく、実体がない。

主演の刑事と警察官は、それぞれ223号と633号と番号で呼ばれ、他の登場人物も店員フェイ以外は名前がない。

邦題を『恋する惑星』にしたのも分かるような気がする。

まるで地球と似て否なるよその惑星の話のような浮遊感が、この街には漂っているのだ。(ちなみに原題は「重慶森林」)

恋する惑星ところで巷では、店員役のフェイ・ウォンのキュートさが話題となったが、私は、警察633号(トニー・レオン)の元カノのスチュワーデスも悪くないと思った。

特に朝出勤のシーンで、スチュワーデス姿の彼女が、動く歩道でしゃがんで、彼のいるアパートの窓に向って手を振る仕草には萌えてしまった。

我ながらつくづくオヤジだなぁ〜と恥じ入ったが、だからこそ最後のシーンでは「あ!」と驚いてしまったのだ。

個性的な女の子フェイも、結局名前を捨て、記号の世界に入って行ったのかと思うと、ちょっぴり切ない。

恋する惑星

 

 

 

 

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