ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2008年05月

中国の女流作家、張愛玲(アイリーン・チャン)の短編集、『ラスト、コーション 色・戒』を読んだ。

近年台湾や香港で、若い女性を中心に人気のある作家だが、映画の公開をきっかけに、日本で短編集が初めて翻訳されたのは喜ばしい。

戦中戦後、激動の時代に生きた女たちの姿が、乾いた文体で、四つの短編に収められている。

まず表題の『色・戒』だが、あっけないほど短い。

こんな短い短編(頭痛が痛い)を、よくぞ2時間半の大作映画に仕上げたものだ。アン・リー監督の手腕、恐るべし。

数々のエピソードをつけ加え、さらに登場人物のバックグラウンドを深く掘り下げながらも、ほぼ原作に忠実になっているのだから。

合々傘だが映画と原作で違うのは、『なぜ佳芝(チアチー)は最後になって易(イー)に「早く行って」と言ったのか』だ。

映画では、過激なベッドシーンでも分かるように愛欲だけの関係だったイーの、人間的な愛情に触れハッとし、スパイではない素の自分に戻ったのだと勝手に思っている。

一方原作では、そもそも2人の性愛シーンはなく、2回関係をもったらしいが、びくびくし通しで、何も感じる余裕はなかったと述べている。

確かにそうだ。
大体、おぼこの女子大生が、数回経験を持っただけで、性愛に目覚めてしまうなんてあり得ないことで、このあたり、やはり男性監督の都合の良い解釈かなぁ。

さて、原作においてチアチーは孤独な存在だった。

練習のための味気ないセックスで処女を失った彼女を、同級生の仲間らは好奇な目で見、彼らとの関係はギスギスしたものになっていた。ひそかに憧れていたクァンさえそうだった。

そして潜入先のイー氏の邸宅でも、商人の妻ということで、イー夫人やその他の官僚夫人からも、見下されていた。

日がな一日、麻雀に明け暮れる夫人たちなので、いやが上でも指元が目立つ。

マージャン卓の上はダイヤの指輪の展覧会のようだ。そしてチアチーだけがその指をダイヤで飾っていない。

それも、馬鹿にされる理由の一つなのだろう。

そんな彼女を見て不憫に思ったのかもしれない。イーはチアチーと宝石店に行き、ダイヤの指輪を選ばせる。

選んだあと、ホッとしたのか微笑むイーの表情。その慈しみの笑顔に彼女は愕然とする。
暗殺計画が成功したら、それこそ私を理解してくれる人は誰もいなくなるのだと・・・。

何とも薄幸というか、数奇な運命を背負った女だ。

さて、数奇な運命と言えば、作者の張愛玲も主人公に負けていない。

彼女は1920年、名門の家庭に生まれた。なんと曾祖父は日清講和条約(下関条約)で全権大使を務めた李 鴻章である。

だが家庭は冷たく、両親は早くに離婚、継母とはウマが合わなかったらしく、寄宿舎生活をしていた。
17歳のころ、ひそかに実母と会っていたのを知った継母が激怒し、彼女を半年間監禁するという事件もあった。

その後香港大学に進んだが、戦争のため上海に帰り、作家生活を始める。

まもなく人気作家となるが、その絶頂期になんと汪兆銘傀儡政権の高官だった胡蘭成と知り合い1944年結婚。
だが夫の女性関係が原因でやがて離婚。
その後、元夫は売国奴とされ、日本へ亡命した。

張愛玲はその後も作品を書き続けたが、やがてアメリカに移住。翌年1956年には29歳年上のアメリカ人作家と再婚している。

そして1995年、アメリカ、LAのマンションでひっそりと75年の生涯を終えた。

ちなみに彼女の作品は中国本土では80年代まで禁書扱いされていた。

彼女にとって『色・戒』は実体験に裏付けされた、思い入れのある作品だったのだろう。

ところで、指輪のことを中国語で「戒指」と言うらしい。

う〜ん、この張愛玲さん、奥が深いわ。


 

 

 

 


 

村上春樹のファンのことを「ハルキスト」というそうだが、実は私、彼の小説が苦手である。

何度もトライしてみたが、あの都会的でクール、かつ不吉な予兆を感じさせるスタイルが、泥臭い私の体質には合わないようだ。

言うなれば、高級化粧品のファンデーションなのに、自分の肌にはなじまない、といった感じか。

「村上春樹のファンだ」という人を見つけるたびに羨ましく思い、仲間入りしたいなと思いつつなかなか叶えられない。

でも、エッセイは好きだし、小説でも、短編なら気に入った作品がいくつかある。

さて、『トニー滝谷』という日本映画のDVDを観た。
原作はもちろん村上春樹。

そう言えば、彼の作品はあまり映像化されていない。
彼自身、映画にも造詣が深いのに不思議だ。

ミステリー作家の伊坂幸太郎氏など、やたら映画化しているのに・・・。

まぁとにかく『トニー滝谷』だが、原作は、短編集『レキシントンの幽霊』に収められている(この短編集では私の好きな「めくらやなぎと、眠る女」もあるのだ♪)

映画で、主役のトニー滝谷とその父親役はイッセー尾形。

孤独の中で呼吸しているような男を見事に演じている。

そして彼の妻になるのが宮沢りえ。

まさしく現実離れした美しい女だ。

理想的な妻でありながら、際限なく高級ブランドの服を買い求める女、なんて矛盾した役、彼女以外に適役がいるだろうか。

孤高の男の束の間の安らぎ、喪失、そして再び訪れた孤独。

寂しい結末なのに、なぜか明るい印象を残して物語は終わる。

上映時間をみると76分。普通の映画よりかなり短い。

私的にはちょうど良いくらい。これ以上長くなると、ちょっと辛くなっていたかもしれない。

そして思った。映画や短編ではなく、ゆっくり村上春樹の長編を楽しむ日がいつか来るのだろうか・・・。

レキシントンの幽霊 (文春文庫)


 

 

つぐない1以前拙ブログにて感想を書いた、映画『君のためなら千回でも」は、子供のころ嘘をついて友を貶めてしまった少年の贖罪の話でもあるのだが、時に子供は残酷な存在だ。

もし嘘をつく子供が、思春期の女の子だったらどうだろう。しかも階級社会イギリスの上流社会のお嬢様だったら。

自分が大人たちにとって、純真で汚れない存在だということは十分自覚している。

自分の無垢さ潔癖さを武器に嘘をついた少女は、やがて一生その重荷を背負って生き続けることになるのだ。

イギリス映画『つぐない』を観た。

まず映像が美しい。

緑豊かなカントリーハウス。野では草花が咲き乱れ、瀟洒な館内に置かれた調度品ひとつひとつ、ため息が出るほど洗練されている。

そして後半、戦時中の場面、長回しで見せたフランス海岸の壮観さ、リアルとシュール、時間が行き戻りするフラッシュバックも巧みだ。

iyanagakiでも何といっても白眉は13歳の少女を演じたシアーシャ・ローランの存在感だ。

冒頭、タイプライターの規則的な音の中、自分の書いた原稿を抱き、神経質にカントリーハウスの廊下を直角に曲がり進む姿には圧倒された。

そして、少女は自身の嫉妬心、潔癖、空想癖から、姉が愛していた使用人の息子に対して嘘の証言をする。そして無実の彼は刑務所に。

本来だったら「13歳の、それも空想癖のある女の子の証言だけで逮捕かよ!」と突っ込むところだが、この少女の迫力ある眼差しをみるともうたじたじになってしまうのだ。

時代はそれから第二次世界大戦へ。姉の恋人は刑務所から戦場へ赴き、やがて姉と再会、そして罪を悔いた少女は大学に行かず、従軍看護婦になり・・・・・。

つぐない私はこの映画は未熟だった少女の、それこそ「つぐない」の話かと思っていたが、ラスト近くなってそれは違う、と知った。

少女には罪を償う機会さえなかったのだ。そして彼女に出来ることは幸せな姉と恋人を妄想することだけだった・・・。

そして教訓
1、手紙を送るときは中身をもう一度チェックすること。(今ならメール)
2、Hをする場所は必ず鍵のかかる部屋で。

う〜ん、現代でも十分通用するな。


昔、中国に返還される前の香港を旅した時、近代的高層ビルや建設中のビル大熊猫 が林立する街並みと、一歩裏に入れば今にも崩れ落ちそうなボロアパートが、となり合っている姿に驚き、またそのアパートすれすれをジェット機が飛んでいる姿に不思議なカオスを感じたものだ。

「こんなにビルを建てて、地震の心配はないのですか」

小太りの現地ガイドさんに尋ねたところ、彼は汗をふきつつ、ゆるぎない声で答えた。

「香港は地震がありませんから」

なんでも香港の地殻はしっかりしているので地震は絶対ないとのこと。

・・・・あれから何年たっただろうか。

あまり地震がないと言われた神戸で大震災があり、今までほとんどなかった福岡でも西方沖地震があった。

そしてこのたびの四川大地震。

四川と言えば、三国志の劉備玄徳の蜀の都「成都」があり、劉備と孔明が祀られている。

また野生ジャイアントパンダの自然保護区。

武侯祠そしてピリッと辛い四川料理。麻婆豆腐、坦坦麺、チンジャオロース、回鍋肉、・・・・。

私の貧相な脳内イメージにおいて、一番中国らしい中国が、四川省なのだ。

北京や上海は興味がないが、四川省はいつか行ってみたいと願っていたのだが・・・。

被害は日に日に拡大している。

自分に出来ることと言ったら、雀の涙ほどの義捐金を送ることしかないが、一日も早い復興を願う。

確かにこの国に対しては、屈託がある。

排日運動、環境汚染、毒入りギョーザ、チベット問題・・・etc。

だがそれは、国民の基本的なインフラ整備はおざなりにして、国の威信や面子ばかりを気にする中央政府に問題があるのだ。

そして、中国国民は政府を選べない。

まして今回の大地震、もっとも被害が多かったのは常のごとく、社会的弱者や子供たち、政府高官など縁のない貧しき人たちばかりなのだ。

とにかく被災者の救出と援助を願って止まない。

そしてあの、香港の小太りのガイドさん。

彼は今もかの地で「絶対地震はありません」ってのたまっているのだろうか。

大熊猫2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

凧揚げ今日本で、凧上げをして遊ぶ子供たちは久しく見なくなったが、昔は東西問わず、男の子の遊びの定番だった。

日本や中国はもちろん、アメリカでも、トルーマン・カポーティの少年時代がモデルと言われる短編『クリスマスの思い出』の中で、主人公バディとおばちゃんが凧上げに興ずる大変印象的なシーンがある。

さて、アメリカ映画『君のためなら千回でも』を観た。

この作品も冒頭、澄み切ったアフガニスタンの空に舞う凧から始まり、最後その凧はアメリカの空を渡っている。

goo映画によるあらすじは下記の通り

1970年代のアフガニスタン。裕福な家の一人息子アミールは、召使いの息子ハッサンと凧遊びをしたり、兄弟のように仲よく暮らしていた。だがある日、小さな二人の絆は思いがけない出来事によって砕け散ってしまう。やがてソ連がアフガニスタンに侵攻。2人の関係は修復されることなく、アミールと父親は米国に亡命する。時は流れ、00年のサンフランシスコ。小説家となったアミールの元に、父親の親友から「君は今すぐ故郷に帰って来るべきだ」と電話が入る…。

平和なアフガニスタン

まず主人公のアミール少年だが、内気で覇気がなく、いじめられっ子タイプで、そんな彼をいじめから守り、けな気に世話を焼く利発な少年が、少数民族ハザラ人の子ハッサンだ。

アミールの父親も、気が利いて凧上げも上手なハッサンを可愛がっており、仲良くしながらもアミールは、ハッサンに強い劣等感を抱いていた。

そのコンプレックスからやがてアミールは、親友であり召使でもある彼に対して大きな裏切りを行う。

あまりに酷い仕打ちに驚いたが、黙ってそれを受け入れるハッサンの従順さにもあきれた。

少数民族として生き抜くための生活の知恵なのかもしれないが、自分を殺したその優等生ぶりには逆に狡さも感じるのだ。

さて時代は移って2000年。

アメリカで作家の卵になったアミールは、亡き父の秘密を知り、それをきっかけに、ハッサンに対する贖罪のため、ある少年を探す旅に出る。

今まで日和見主義だったアミールが突然、付けひげで変装しタリバン政権下、厳戒体制のアフガンに潜入するのだ。

まるで映画『シリアナ』のCIA工作員のようだ(生爪を剥がれる拷問はなかったが)

この予想外の展開以上に気になったのが、作品における、タリバン=絶対悪というスタンスだ。

それで行くと、タリバンとは、常に武装して人々を虐殺し、公開処刑を行い、時々児童をさらっては性的虐待をする、極悪非道な連中ということになる。

だが元々タリバンは、ソ連の撤退後、内戦状態にあったアフガンにおける自警団として、神学生たちによって運営されていたものだ。

ソ連の侵攻後、今に至るまでのアフガニスタンの長い苦難の日々を端折って、いきなり「タリバンがみんな悪い」みたいな描き方をするのはいかがなものか。

アメリカの凧そしてラスト、アフガニスタンで性的虐待を受けた少年は、アメリカでアミールの家族と暮らすことになるのだが、果たしてそれで目出度し目出度しだろうか。

言葉も宗教もイデオロギーも違う異国で、ましてアラブ人差別の強いブッシュ政権下で。

アミールの友情と善意には感嘆しつつも、どこかすっきりしないのは、この作品に流れる、「アメリカ目線」なのかもしれない。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前、4Fミステリーというのに凝っていた時がある。

女性(Female)が作者、訳者、主人公で、読者も女性が多いというミステリーものだ。

スー・グラフトン著「探偵キンジー・ミルホーン」シリーズや、パトリシア・コーンウェルの「検屍官」シリーズなど熱心な読者だったのに、いつの間にか縁遠くなって久しい。

シリーズは今も続いているし、また読み始めたいなと思うのだが、一度止めてしまったシリーズ物はどうも垣根が高くて、結局そのままになっている。

さて、ローリー・リン・ドラモンド著『あなたに不利な証拠として』を読んだ。

これもいわゆる「4Fミステリ」と言っていいだろう。
登場するのは5人の女性警察官。

短編集だし、気軽な気持ちで読み始めたのだが、これが実に重かった。

先に書いた「探偵キンジー・ミルホーン」ではシリーズ冒頭、生まれて初めて人を射殺した主人公の苦悩から始まっているが、この短編集でも、第一篇の『完全』において、22歳の警察官が初めて強盗犯を射殺するに至る過程が、リアルに描かれている。

この短編集はいわゆる謎解きやサスペンスものとは違う。

そこにあるのは研ぎ澄まされた皮膚感覚だ。

血や火薬の匂い、死臭を嗅ぎ、見るも無残な死体を凝視し、銃の重みを手で感じ、撃たれた時の痛みや熱さに耐え、心臓の鼓動を聞く・・・。

警察官の日常である事件の現場を、これほど感覚的に描いたのは衝撃的だ。

読むほどに、現場の張りつめた空気、すえた臭い、血の匂い、そしてすさまじい恐怖が五感に伝わってくる。

だが、この作品は感覚的なものばかりではない。

特に『傷痕』などは、暴行された女性が、警察、病院、マスコミなどによってセカンドレイプされていく様子が、淡々と描かれており、読んでいて背筋が寒くなった。

そして最後、心に傷を負った元警察官がひたすら魂の再生を求めてさまよう、『わたしのいた場所』は、ミステリーを超えた、珠玉の物語だ。

銃社会アメリカ。

正当であれば銃で人を殺しても構わないという立場の女たち。

ある意味、贖罪の機会も与えられない彼女たちの魂の叫びが、平和な日本の私でも、うっすらと感じられた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 


不景気のせいか、私の住む地元の商店街は、軒並みシャッターストリートと化しているが、中には細々と商いを続けている店もある。それがまた謎なのだ。

十年一日のごとくのディスプレイ、ホコリだらけの商品、客の気配のない店内とやる気なさそうな店主。

この人たちって、どうやって生計を立てているのだろう?不思議でならない。

さて、日本映画『転々』の中で、登場人物が同じような疑問を率直に店主に尋ねるシーンがある。結果はトホホに終わったが。

この『転々』という映画も、不思議な作品だ。

オダギリジョー扮する大学8年生竹村は、借金が84万ある。返済期限はあと3日。

そこへ取り立て屋の福原(三浦友和怪演!)から借金をチャラにする方法を提案される。

それは、福原に付き合って霞が関までの散歩に付き合うこと。報酬は、百万円。

怪しすぎる話に躊躇するも、背に腹はかえられず、竹村は恐る恐る福原と一緒に歩いて行くことになる。

まず、2人の歩く街の風景が素晴らしい。

ディープな東京の街を、なめ回すように映像は進んでいく。

ここで描かれているのは、首都東京でも、国際都市TOKYOでもなく、関東ローム層に乗っかった一地方の東京だ。

そのたたずまいは猥雑でいい加減で懐かしい。

つか高層ビルを除けば、私の住む街と変わらない空気だ。

そしてそこに住む人々はひたすらゆるい。

だがそれは、丸腰の人間が、現実世界の不条理を受け入れながらも、たくましく生き抜いていくためのゆるさなのだ。

ところで、上記で「散歩」という言葉を使ったが、これは実際は散歩ではない。なぜなら福原の目的は決まっているから。

だから「散歩」よりは「寄り道」「道草」という言葉の方が相応しい。

シビアで重い『目的』に行く前に、ほんのひと時「寄り道」をしたかったのだ。

そしてこの「寄り道」の最後、孤独な2人の男の目に、東京の姿はどう映ったのだろうか。

 



 

 

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