中国の女流作家、張愛玲(アイリーン・チャン)の短編集、『ラスト、コーション 色・戒』を読んだ。
近年台湾や香港で、若い女性を中心に人気のある作家だが、映画の公開をきっかけに、日本で短編集が初めて翻訳されたのは喜ばしい。
戦中戦後、激動の時代に生きた女たちの姿が、乾いた文体で、四つの短編に収められている。
まず表題の『色・戒』だが、あっけないほど短い。
こんな短い短編(頭痛が痛い)を、よくぞ2時間半の大作映画に仕上げたものだ。アン・リー監督の手腕、恐るべし。
数々のエピソードをつけ加え、さらに登場人物のバックグラウンドを深く掘り下げながらも、ほぼ原作に忠実になっているのだから。
だが映画と原作で違うのは、『なぜ佳芝(チアチー)は最後になって易(イー)に「早く行って」と言ったのか』だ。
映画では、過激なベッドシーンでも分かるように愛欲だけの関係だったイーの、人間的な愛情に触れハッとし、スパイではない素の自分に戻ったのだと勝手に思っている。
一方原作では、そもそも2人の性愛シーンはなく、2回関係をもったらしいが、びくびくし通しで、何も感じる余裕はなかったと述べている。
確かにそうだ。
大体、おぼこの女子大生が、数回経験を持っただけで、性愛に目覚めてしまうなんてあり得ないことで、このあたり、やはり男性監督の都合の良い解釈かなぁ。
さて、原作においてチアチーは孤独な存在だった。
練習のための味気ないセックスで処女を失った彼女を、同級生の仲間らは好奇な目で見、彼らとの関係はギスギスしたものになっていた。ひそかに憧れていたクァンさえそうだった。
そして潜入先のイー氏の邸宅でも、商人の妻ということで、イー夫人やその他の官僚夫人からも、見下されていた。
日がな一日、麻雀に明け暮れる夫人たちなので、いやが上でも指元が目立つ。
マージャン卓の上はダイヤの指輪の展覧会のようだ。そしてチアチーだけがその指をダイヤで飾っていない。
それも、馬鹿にされる理由の一つなのだろう。
そんな彼女を見て不憫に思ったのかもしれない。イーはチアチーと宝石店に行き、ダイヤの指輪を選ばせる。
選んだあと、ホッとしたのか微笑むイーの表情。その慈しみの笑顔に彼女は愕然とする。
暗殺計画が成功したら、それこそ私を理解してくれる人は誰もいなくなるのだと・・・。
何とも薄幸というか、数奇な運命を背負った女だ。
さて、数奇な運命と言えば、作者の張愛玲も主人公に負けていない。
彼女は1920年、名門の家庭に生まれた。なんと曾祖父は日清講和条約(下関条約)で全権大使を務めた李 鴻章である。
だが家庭は冷たく、両親は早くに離婚、継母とはウマが合わなかったらしく、寄宿舎生活をしていた。
17歳のころ、ひそかに実母と会っていたのを知った継母が激怒し、彼女を半年間監禁するという事件もあった。
その後香港大学に進んだが、戦争のため上海に帰り、作家生活を始める。
まもなく人気作家となるが、その絶頂期になんと汪兆銘傀儡政権の高官だった胡蘭成と知り合い1944年結婚。
だが夫の女性関係が原因でやがて離婚。
その後、元夫は売国奴とされ、日本へ亡命した。
張愛玲はその後も作品を書き続けたが、やがてアメリカに移住。翌年1956年には29歳年上のアメリカ人作家と再婚している。
そして1995年、アメリカ、LAのマンションでひっそりと75年の生涯を終えた。
ちなみに彼女の作品は中国本土では80年代まで禁書扱いされていた。
彼女にとって『色・戒』は実体験に裏付けされた、思い入れのある作品だったのだろう。
ところで、指輪のことを中国語で「戒指」と言うらしい。
う〜ん、この張愛玲さん、奥が深いわ。