ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

2008年09月

見捨てないで凄い映画を観た。

ルーマニアの新人監督、クリスチャン・ムンギウの作品
4ヶ月、3週と2日』だ。

尚この映画は、2007年のカンヌ映画祭において、最高のパルム・ドールを受賞している。

舞台は、1987年、チャウシェスク独裁政権末期のルーマニア。

極端な物不足と貧しさで、市民は煙草一本を知らない者同士で分かち合い、バスの切符一枚を融通し合う。

街中では、黒いけむりを上げて中古車がのろのろ走り、電力不足で、夜の闇は深い。

ホテルの出入りすら、IDカードの提示が必要という不自由な設定が、ざらついた映像と相まって、緊張感をより高めている。

苦悩大学の女子寮での、2人のルームメイト同志の会話から物語は始まる。

実は一方の女子大生、ガビツァは妊娠しており、今日、中絶手術を受けるのだ。そしてルームメイトのオティリアはそんな彼女のために、一日中走り回る。

当時、チャウセスクは、深刻な労働不足を補うため、産めよ増やせよの政策をとっていた。したがって、妊娠中絶は違法であり、当局に知れたら、本人や医師らは重罪に処せられるのだ。

だが肝心のガビツァは、その自覚があまりないのか頭が弱いのか、すべてにだらしなく、オティリアに頼り切っている。

オティリアはそんなガビツァに振り回され、予想外の事態が次々起こることにイライラしつつも、ひたすら彼女に尽くす。

正直こんなバカ女のために、なぜそこまでするのか、不思議に思うほどだ。

そしてあるホテルの一室でそれは行われる。

果たして無事に手術は終わるのか、ガビツァの容体が悪化するのではないか、違法手術がばれやしないか、ホテルの人たちが、挙動不審な彼女らを当局に密告するのでは、そもそもこの医者、信頼できるのか・・・・・。

後半、相当緊張感が高まっていたので、ラストシーン後、エンドロールの音楽を聞いたとたん、思わず腰がへなへなに砕けてしまった。

うーん、このガビツァという女、バカそうに見えたが、どうしてしたたかな女だ。
でもこれくらい、逞しくないと、厳しい独裁政権下、生き抜くことはできないだろう。

また、戒厳令の夜のようなルーマニアの街をさまよい歩く、オティリアの姿は秀逸だ。

この女優はきっと大物になるだろう。

それにしても映画の中で、妊娠した子供の父親の名前はおろか、話題にも一切上がらないのが興味深い。

厳しい社会主義は、女たちをかくも強くし、団結させるのだろうか。

4ヶ月、3週と2日 デラックス版

 

 

 

もう旧聞に属する話題だが、先月、北京オリンピックが開催中の間、普段は見ないテレビに、毎日かじりついていたものだ。

だが一方で、メダリストらが、テレビ局のスタジオに呼ばれてのトーク番組や、選手の生い立ちなどを紹介する番組などは不愉快で、すぐ切ってしまう。

私はオリンピックの選手とは、4年に一度、下界に降りてくるオリンポスの神々だと思い込んでいるので、タレント相手のかみ合わないトークや、家族のことだの、どんな食べ物が好きだの、好きな芸能人だのは聞きたくないのだ。

だがそんな私の耳にも、嫌というほど入ってきた言葉がある。それは『感謝』だ。

日本のメダリストたちは、インタビューの時、必ずと言っていいほど、こんな言い方をした。

「自分ひとりで勝ったのではない」「応援してくれた皆さんのおかげ」「仲間や家族に感謝している」「自分を育ててくれた方々に感謝」

まるで日本IOCからお達しがあったのかと思うほど、みな同じような返答をしている。

おいおい、応援してくれた皆さんのおかげって、私ら寝っ転がってビール飲みつつ観てただけだよ。

君たちは、少なくとも私の百倍努力してきたじゃない。なんでそんな謙虚な物言いしかしないのだ。

『仲間がしっかり守ってくれたので、最後まで投げられた。仲間のみんなに心から感謝している』

ちょっと上野さん、みんなが打ってくれなかったから、あなた2日間で3試合、合計413球を投げるという死闘を強いられたんでしょうに。

でも彼女の澄んだ瞳は嘘をついていない。

心からそう思っているのだ。

スポーツも究極を極めるとそんなイエス・キリストのような心境に達するのだろうか。

さて、こんな日本のメダリストたちの言動を、偏屈な哲学者、中島義道は、どう分析したのだろうか。

彼の著書『私の嫌いな10の人々』を読んだ。

戦う哲学者、義道の嫌いな人はこんな人々だ。

1、笑顔の絶えない人

2、常に感謝の気持ちを忘れない人

3、みんなの喜ぶ顔が見たい人

4、いつも前向きに生きている人

5、自分の仕事に「誇り」を持っている人

6、「けじめ」を大切にする人

7、喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人

8、物事をはっきり言わない人

9、「おれ、バカだから」と言う人

10、「わが人生に悔いはない」と思っている人

おお、まさにメダリストの(マスコミが作った)キャラクターそのものではないか。

私は中島氏と違って、こういう人たちが嫌いではないが、たぶん親友にはなれないだろうと思う。

「肉体の祭典」でありながら「いい人」を強要される世界。

オリンポスの果実はこうも苦くなってしまったのか。

私の嫌いな10の人びと

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ1、2年、本を読んで、面白くはあっても、心が震えるような体験をしたことはなかった。

その理由は簡単。私自身の感受性が摩耗しているからだ。

本を胸にかき抱き、めぐり合えた悦びに恍惚となる瞬間など、もはやないのかと、あきらめていた時、一冊の本と出会った。

カズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』

この衝撃をなんと表現したら良いのだろうか。

カズオ・イシグロと言えば、英国ブッカー賞をとり、映画も大ヒットした作品『日の名残り』が有名だ。

二つの大戦をはさんで、英国政府に大きな影響を持つ貴族、ダーリントン卿に、長年忠実に尽くしていた執事スティーブンスの物語。

英国萌え〜執事萌え〜の私には何度読んでも垂涎の作品だが、このたび読んだ『わたしを離さないで』は、「これが同じ作者か?」と見まがうほど、『日の名残り』とはかけ離れている。

共通点と言えば、その筆致の静謐さだろうか。

舞台はイギリスだが、まったく英国臭がしない。
場所を日本やアメリカに変えても違和感のない、無国籍風な世界で、女性の淡々とした科白で語られる物語は、村上春樹に近い気がした。

31歳になる介護人の女性キャシーの、子供時代の回想から始まるのだが、読み進むうちに、辻褄の合わない点や、おや?という疑問符がどんどん出てくる。

そして、キャシーとその友達、トミーやルースらの背負った、出生の秘密や過酷な運命に思い至り、呆然となった。

そしてより残酷なのは、子供たちが、その事実について、当然のように受け入れている点である。

「ヘールシャム」という施設で育った彼らは、まだ物心つかない幼い頃から、施設の先生に、自らの運命をそれとなく仄めかされて育った。

やがて、ごく微量の毒を毎日飲まされた人が、猛毒に対して耐性を持つように、キャシーたちは、自分たちの悲しい人生に何の疑問も抱かず、黙って受け入れるようになったのだ。

施設の先生らが非情なのかというと、そうではない。

彼らはいつも子供たちを想っている。

ちなみに、この物語の中に悪人は一人も出てこない。

いじわるをする子や、わがままな子はいても、本質的にはみな善人だ。

逃れられない過酷な使命を背負いながらも、彼らは友情をはぐくみ、ケンカや意地悪をしては仲直りし、恋をする。

かなわぬ夢と知りながら、都会のオフィスで働く女性に憧れるルースや、キャシーが子供のころ失くした音楽テープを、懸命に探すトミーの姿。

そして愛し合う二人が、少しでも長く一緒にいられるよう、ただの噂と知りながらも、それに賭けようとする姿が切ない。

この作品はジャンルに分けるとすれば何だろう、SF?ミステリ?

でも私には、思春期の子どたちの成長物語に見える。

たとえ未来がなくとも、それでも彼らは泣き、笑い、傷つきながら、人生を真摯に生きているのだ。

それにしてもカズオ・イシグロはすごい物語をつむぐ人だ。

6歳まで日本の長崎で育ち、英国作家になった彼の、頭の中を覗いてみたい。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今は亡き中島らもさんの作品にしばしば名前が出る作家に、ウイリアム・バロウズと、チャールズ・ブコウスキーがいる。

バロウズは重度のヘロイン中毒者、ブコウスキーは、これまた重度のアルコール中毒患者だった。

以前から読もう、読もうと思いつつそのままになっていた。

そしてやっと最近、ブコウスキーの『町でいちばんの美女』を読んだ。

ちなみに、ブコウスキーは74歳、バロウズは83歳で亡くなっている。

体に悪い人生を送ったわりには長寿だ。

さて、『町でいちばんの美女』だが、30篇からなる短編集だ。

読み進むうちに、野卑な笑みがこぼれてくる。

「うひゃ、うひゃ、こんな話、日本のお育ちの良いお坊ちゃま、お嬢ちゃま作家にゃぜったい描けないだろうな、ざまあみろ(だれにいってる)」

なんかもう、このダメダメ感がたまんない。
思わず抱きしめたいほどヘタレでバカで、情けなくて、愛すべき人たち。

最下層の暮らし、仕事は、理不尽に重労働で低賃金。

そこで格差社会に怒り、労働者にも権利を!と訴えたらプロレタリア文学に突入するのだが、この短編に登場する彼らは、そんな意識はさらさらない。

とりあえず、酒と女があれば事足りるのだ。

だからと言って、きっぱり割り切っているかと思えばそうでもない。

作中、ブコウスキー本人らしき人も出てきて、低賃金労働に喘ぎながらも、「俺は大学で創作を学んだのに」「俺の居場所はここじゃない」などの科白が出てくるのには苦笑する。

彼の作品はこれでもか、というスラングが多く、読んでいる間は辟易するが、不思議と読後感は清らかで、時に美しい映像が心に残る。

例えば「人魚との交尾」では、月の夜、波にたゆらう金髪の美女の姿が彷彿と浮かんでくる。

「15センチ」はブコウズ版「一寸法師」。

寓話や、SFぽいものもあり、彼の懐の深さが感じられる。

そして思った。どんなにみじめに見える、最低限の生活の中にも、ささやかな光はあるのだと。


 

 

 

 

 

 

 

 

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