横光利一の長編小説、『上海』は刺激的かつ官能的だ。
80年近く前に書かれたものなのに、簡潔でスピード感あふれた文章とスリリングな展開は、読者に一息入れる隙を与えない。
極めて映像的なシーンで描かれる上海は、まるで近未来SF映画『ブレードランナー』のようだ。
その魔界都市においては、あらゆる国籍の男や女、日本や欧米各国のサラリーマン、白系ロシア人、独立派のインド人、共産党のスパイ、売春婦などがあふれ、カオスの世界を作り上げている。
しかし、その混沌とした都市には、不思議な優しさがある。
はみ出し者や自国で食いっぱぐれた連中を包み込んでくれるこの街は、多少の腐臭はするが、あたたかい。
さて物語は、1925年、5・30事件の上海を背景に、列強ブルジョアジーとプロレタリア、ロシア革命の余波と共産党、各国の愛国主義といった闘争を描いたものだが、私はそんな社会的な事より、主人公で上海に住む日本人銀行員、参木に惹かれた。
この参木という男、とにかくモテルのだ。
出会う女出会う女、皆このやさぐれた日本のサラリーマンに惚れてしまう。
トルコ風呂の湯女お杉、そのトルコ風呂の女将で中国の豪商の妻お柳、外人の取巻きにいつも囲まれているダンサー宮子、白系ロシア人オルガ、美しい共産党の女闘士芳秋蘭・・・。
だが参木はいつもふわふわして、何の行動も起こさない。
友人の妹で人妻である競子に未練タラタラだったかと思えば、女共産党員芳秋蘭を追いかけたり、お柳の嫉妬を買ってトルコ風呂をくびとなり、売春婦に身を落としたお杉を想ったりと、1人彷徨している。
というか参木に係わった女は皆、不幸になっているようで、また彼自身も自殺願望なところがある。
また彼は他の外国人のように国を背負っているという意識が皆無で、これといった欲望も持ち合わせていない。
その根なし草のようなたたずまいが、逆に重荷を背負った女たちを惹きつけるのかもしれない。
作中の表現によると彼は「白皙明敏な中古代の勇士のような顔をしている」そうだが、どんな顔なんだ、見たいぞ。
さて、もし『上海』が映画化されるとしたら主人公参木は誰が良いだろう。
昔の俳優だったら『浮雲』の森雅之なんかぴったりかも。
そんな想像をめぐらすほど、映像が立ちのぼる小説なのでした。