菖蒲某公園に今が盛りの菖蒲を見に行ったときの事。水をたたえた菖蒲園の周りに、中高年の男女がグループでやってきた。いずれも人品怪しからぬ紳士淑女たちだ。そして彼らはやおら手帖とペンを取り出し、花を見つつ何か書き始めた。どうやら歌を詠んでいるらしい(俳句か短歌かはわからないが)。

爽やかな麦秋の空の下、歌に興じているこの人たちは、恵まれた部類の人生を送っているのだろうな、と思いつつも、6月=菖蒲というお題(?)の安直さに何となくぬるさを感じたのも確か。

さて、「韻を踏む」というのは歌を詠む時のポイントだと思うが、アメリカ生まれの音楽“ラップ”においてもこれは重要である。ていうか韻(ライム)を踏まなきゃラップにはなりえない。

母音や同音異義語、似ていて意味の違う言葉を選びつつ、それもただ並べるだけなら意味は無いわけで、それぞれメッセージを持ち、かつリズムに乗ってフロウしなければならない。

アメリカの、黒人を中心とした貧困層の若者に、この音楽は広がった。彼らは”バトル”と呼ばれる一種のタイマンで腕を磨いていく。即興で相手を罵倒する内容のラップをし、その相手は前者の言葉をとらえ韻を踏み返しまた罵倒する、の繰り返しだ。言葉のセンス、リズム感、頭の回転の速さがないと出来ない技だ。

まずしくて楽器も弾けない音符も読めない彼らにとって、紙と鉛筆だけで表現できる音楽の世界がそこにあった。

そして今、日本でも普通に“ラップ”は浸透しているが、第一線で活躍している人が、あのホテルニュージャパン横井社長の孫だったり古谷一行の息子だったり、ぼんぼんが多いのはなぜなんだ?

 

  
ルーズ・ユアセルフ