今日、時間が空いたので、山口県にある「中原中也記念館」に行ってみた。つか本当は、記念館のある湯田温泉で一風呂浴びたいというのが目的だったりして。
この頃は暑いので、朝晩シャワーを浴びるだけで済ませているが、たまにはのびのびと手足を伸ばして温泉につかりたい。
やはり夏は温泉に来る人は少ないのだろうか。平日の昼間というのもあって、女湯は貸切状態。思わず広い浴槽で平泳ぎをしましたよ。
お湯に上がった後、無料休憩室で一眠りしようかと思ったが、あまりに広々とした立派な和室に、小心者の私は怖気づき、結局、定番の腰に手をあててコーヒー牛乳を飲むと、温泉を後にした。
さて、記念館の方は、旅館やホテルが立ち並ぶ温泉街のごちゃごちゃした中にひっそりと建っていた。
中也の父親は、歓楽街である湯田温泉の環境を、「教育上よろしくない」と嫌い、中也に外で遊ばないよう言ったそうだが、
そんなわい雑な世界の中で、彼の本質を見極める目は育ったのだろう。十代の頃に書いた短歌を読むと、現代の作品と言ってもおかしくない、リアリティに満ちている。
常々私が中也で気になっているのは、彼の次男愛雅のことだ。中也は長男文也を亡くして、精神に変調を来たしたが、その後生まれた次男についてはほとんど触れていない(と思う)
文也については「在りし日の歌」の中で、その痛いほどの愛惜を感じる事ができるが、愛雅には何も残されていない。記念館の中でもほとんど触れていなかった。
もちろん中也の病床が進行していたため、仕方のない事だとは思うが、この1歳で死んだ幸薄い次男を思うと心がいたい。
ところで、記念館は私が滞館中、他の来客は一組だけ、温泉は貸切状態だった・・・・・大丈夫なのか、湯田温泉!
中原中也詩集
コメント
コメント一覧 (2)
私が手に取ったのは、岩波文庫版中原中也詩集です。
なぜ、山口で生まれたかは、毛利家の家臣だったからのようです。それなら維新の時に中原家は、なぜ東京に行かなかったのかは、年譜には書いてませんが、本題とは関係ないからでしょう。
1934年10月18日 長男文也生まれる
1936年11月10日 文也亡くなる
1936年12月15日 次男愛雅生まれる
1937年10月22日 中也亡くなる
愛雅少年のことは何も記されていません。
モーツアルトの晩年みたいですね。
次男が生まれた9日後、12月24日に書かれた「夏の夜の博覧会は悲しからずや」には、僕と坊やと女房の3人が登場しますが、坊やのイメージはどちらなのでしょう。といっても正解はないのですが・・
中也の、愛雅の記述がない理由として
1精神状態がひどく、次男を思いやる余裕がなかった。
2もちろん次男の事は愛していたが、死んでしまった文也を 可哀想に思い、敢えて記述しなかった。
できれば2の理由であってほしいと思いますが、これこそ、正解はないのでしょうね。