日本人が海外向けに英語で書いたものが、後に日本語に翻訳され、逆輸入のかたちで入ってくるケースがある。古くは新渡戸稲造の「武士道」や岡倉天心の「茶の本」などがそうだ。
「英語→日本語に翻訳」の工程を経た分、不純なものが取り払われたのか、いずれの作品も無駄のない凛とした印象がある。日本の曖昧さを語りながらも、文章自体には一切のあやふやさがないのだから。

そして思った。やはり日本の文化を語るのは、客観的な視線を持つ国際人にこそふさわしいのだろう。

さて、英国の作家カズオ・イシグロは、5歳の時に渡英したのだから、ほとんどネイティブだと思うが、彼の書いた「日の名残り」を読むと、私はどうしても古き日本人の姿を想像してしまう。

執事スティーブンスの主人に対する忠誠ぶり。蛇足だが、彼の完璧なそれでいて目立たない仕事ぶりを見て、「執事」という職業に向いているのはイギリス人と日本人だけだろうな、と思った。

だが彼はあまりに主人に心酔しているがため、周りが見えていない。いや見てないふりをしていたのか。

主人で政界の名士ダーリントン卿がナチに染まり、その幹部らが続々屋敷にやってきては、きな臭い会議をしているのに、スティーブンスはただただ完璧な接待だけに心をくだき、主人最大の危機に気づこうとしない。そしてダーリントン卿ほど心のきれいな紳士はいない、と自負する。

結局彼は何もしない。主人を尊敬しながらもただ黙って破滅していくのを見ているだけだ。

もしこれがアメリカの小説であったらどうだろう。たぶんスティーブンスは美しい女中頭と愛し合い、2人で協力して、主人が間違に気づくように奮闘する話になるのではと思う。彼らはポジティブだから。

さて、日本にもスティーブンスのような人がいる。仕事一筋で、反抗期の子供の教育も親の介護問題も妻に任せっぱなしだ。

彼らは本当に会社に忠実だったのか。それとも現実の生々しさから逃げたくて仕事をかくれみのにしていただけなのか、よくわからない・・。