日本の歴史上の人物で、損な役回りと言えば、山ノ内一豊と細川忠興だろう。どちらも奥さんの方が有名だ。一豊なんて、奥さんの逸話は知っていても本人が何をした人物なのか、知らない人が多いのではないか。

さて、先日「いのちのたび博物館」にて『大名細川家 文と武の軌跡』を観に行った。この博物館は元々、世界最大の恐竜の標本や、化石なのが売りなのだが、ティラノザウルスやトリケラトプスに囲まれながら、戦国時代の名品を楽しむのもまた一興だ。

さて、利休7哲と呼ばれる千利休の高弟の中でも、もっとも利休と親しかったと言われる細川忠興。文武両道とはまさしく彼のことを言うのだろう。甲冑や書画、茶道具など、名品の数々に心が躍ったが、特に印象に残ったのが、千利休が書いた手紙である。それには、利休が秀吉の怒りにふれて堺蟄居を命ぜられた時、身の危険を冒してまで淀まで見送りに来てくれた忠興に対して感謝の言葉がしたためられていたらしい(達筆で何と書いているか分らなかったが)

そんなエピソートを知ると、あの「本能寺の変」の時、義父の明智光秀の誘いを断り、信長に弔意を表し、妻で明智光秀の娘、玉を幽閉するなどの、あの手際の良さは何だろうと思った。たぶんマキャベリストの父、藤孝の命に従っただけかもしれない。

また展示品の中に“ゆがみ”という銘の茶杓がある。利休の作で、忠興が最も愛用していたものだが、うっかり口をすべらせて、人に譲ってやると言ってしまったため、それは彼の手を離れ他人のものになってしまう。忠興は惜しがるが、武士が一度口にした事をひるがえすことは出来ない。忠興は茶杓を譲る時に書状もしたため、「泣く泣く、そなたに差し上げます」なぞと書いている。

美人だがわがままな嫁(と私は思っている)に悩まされ、武将として多くの手柄を立て、文芸、茶の湯でも一流でありながら、妙にぬけたところもある忠興、魅力的な男だ。

細川忠興―ギリギリの決断を重ねた戦国武将