最近、遅まきながら、書家骨董に興味を持つようになった。
掛け軸、茶碗、茶道具など玉石混淆、今は何を見ても面白く、街を歩いて古物店を見かけると、つい立ち止まって、時には、ウィンドー越しにトランペットを見つめる黒人少年のごとく、顔を押しつけて眺めることも、ままある。

いわゆる専門家では味わえぬ、ビギナーズの悦びにひたっているわけだが、優れた書や茶碗を見、「ああ、もしこれを所有できたら・・・」と夢想してしは、我家のお歳暮置き場となっている床の間や、醤油の染みがついたさびれた台所を思い出し、うなだれるのである。

さて、小林秀雄の本、『モオツァルト・無常という事』は珠玉の作品集だが、その中の「骨董」と「真贋」は、いつ読んでも面白い。小林は一時期、かなり骨董にのぼせ上がった時期があるらしく、冷静になった今、その頃を自嘲的に且つ懐かしさをこめて語っている。だが、苦労して巻き上げた抹茶茶碗で牛乳を飲んだりするところは彼らしいというか。

骨董はいじるものである。いくら博物館や美術館で名品を見て回り、目が肥えてもそれは美術鑑賞にすぎない。そして所有する人間の信用が高まれば高まるほど、骨董品は美しさを増すらしい。もし自分の持っている茶碗に価値がないと云われたら、所有者は、茶碗のせいではなく自分が悪いのだ、と思わなければならない。

将来、自分の平常心を狂わすような骨董品に出会ったらどうしよう。経済的なものもあるが、まず、その重荷に耐えられるだろうか。恐れつつも期待している自分がいる。