先日起きた、米国ペンシルバニアのアーミッシュの学校を襲った事件。銃の犠牲者は5人に増え、重体の少女もまだ何人かいるそうだ。

のどかなアーミッシュの村を襲った悲劇を知り、すぐ思い浮かべたのは、ちょうど読み終えたばかりの本、トルーマン・カポーティの「冷血」であった。

「冷血」の方は、平和な片田舎で起きた一家四人の惨劇事件である。犯人は至近距離から被害者の頭をぶち抜いている。殺す必然性のない無意味な殺人(まぁ殺人に必然性もなにもないのだが・・)

気持ち悪いくらい似通っている2つの事件。

ところで、惨劇が起きると、毎回とりざたされるのが、犯人の生い立ちやバックグラウンドだが、それを探るのは空しい作業だ。

はっきり言おう。こういう残酷な事件を起こした犯人に対しては、事件の現象だけで裁判を執り行うべきである。

どんな冷酷な犯罪を起こした者も、探せば良い所はあるし、会ってみると意外といい人だったりする。犯人を知れば知るほど、深みにはまって真実が見えなくなる危険性がある。

さてこの『冷血』だが、事件の被害者は、村の裕福な農場経営者で、四人家族。働き者で誠実な父親、病弱な母、素直で聡明な娘と息子。

まるで絵に描いたような古き良きアメリカの一家が、2人組みの男によって虫けらのように殺されていく。

だが、読み進んでいくうちにだんだん、「やばい、やばいよ」という気持ちになってきた。
なんと殺人犯のうちの一人、ペリーに感情移入してしまい、知らず知らずのうちに彼を応援している自分がいるのだ。

不幸な生い立ち、貧困、施設での虐待に加えて、身体的なハンデ。しかしその中で、彼は学問や芸術に憧れ、冒険や宝探しを夢想し、ギターを奏で、詩を書く。そのけなげさには、胸をつかれた。

聞くところによると、カポーティ自身も早くに両親が離婚し、親戚の間をたらいまわしにされるという不幸な少年期をおくり、身体にコンプレックスも抱いていた。

そんなわけで、ペリーには深いシンパシーを抱いていたらしい。

無残に殺された善良なアメリカ市民より、犯罪者に心を傾けたことに関して、カポーティ自身も苦しんだろうか。

朝日新聞の10月2日夕刊に、沢木耕太郎氏の、映画「カポーティ」の批評が載ってあり、こんなことが書かれていた。

ある時、カポーティは取材中に親しくなった警察官に、作品のタイトルを「冷血」に決めたと話す。すると、捜査官が皮肉な口調で応じる。
「それは彼らの犯行のことか、それとも彼らと親しくする君のことか」

殺人者に同情を寄せた読者も、やはり冷血なのだろうか。

やがて、カポーティはこの作品の発表後、筆を絶ったという。

冷血