以前から気になっていた小説、アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んだ。

時代背景は、第二次世界大戦末期のハンガリーの田舎らしい。
長引く戦争で、はなはだしい食糧危機のため、都会に住む母親が双子の息子たちを田舎に住む祖母にあずける事から話は始まる。

この祖母が凄まじいババァなのだ。不潔で粗野で強欲で、村の人々からは「魔女」と呼ばれている。

そして孫である双子の少年たちを「牝犬の子」と呼び、口汚くののしる。

日本でも戦時中、疎開先で虐待された子供の話を聞いたことがあるので、そういった類の、少年達の成長物語かなぁと思ったらさにあらず。

この10歳ほどの双子たちの、まあしたたかな事、冷酷で逞しいのはババァ以上だ。

話の内容はかなりハードで、思わず目をそむけたくなるようなグロな場面も多い。もし映画化されたら絶対15禁か18禁になるだろう。

それなのに、なぜかサクサク読めるのだ。その秘密は独特の乾いた文体である。

主観の一切入らない、感情のない描写によって、自分自身がすっと双子の「僕ら」の中に入って行ける。こんな感覚は久しぶりだ。そして「僕ら」はこの陰惨な世界の中で不思議に生き生きと楽しそうだ。

作者自身も「解説」の中で戦火の中、子供時代を過ごした事について「かなり幸福な子供時代だった」「むしょうに懐かしい」と述べている。

この発言、私は何だか分る気がする。大人と違って、明日がどうなるか分らない非日常な生活は、子供にとって毎日がワクワクの冒険気分なのだろう。

さて、好調に読み進んできたこの物語、ラストで大きな疑問に出会う。思わず「なぜ?」と呟いてしまった。

そしてその疑問を解決するため続編『ふたりの証拠』を読んだのだが、解決するどころか謎は深まるばかり。つか、双子自身、本当に存在していたのか・・・。

やはり三部作の最後『第三の嘘』まで読まねばならぬのか。

そしてあの感情を省いた乾いた文体自体が、一種のトリックらしいと気がついた時はもう遅い。

恐るべしアゴタ・クリストフ。彼女こそまさしく「悪童」だ。