429ちょっと前の事だが、先週月曜の夜、NHKで『小椋佳・63歳のメッセージ』を見た。それ以降、私の頭の中で彼の曲が、壊れたプレーヤーのように繰り返し流れている。

たまらず曲を聴こうと思うが、小椋佳は、LPレコードしか持っていない。
聴こうにもプレーヤーは数年前に処分しているし、レコード自体10年以上、ジャケットから出していない、つか出すのが怖い。

そんなわけで近くのレンタルショップで彼のCDを借りてくる。大好きな『彷徨』が聴きたかったのだが、ベスト集みたいなのが一枚しかない。あまり需要はないのか。

そして聞いてみると、アレンジも、昔知っているのとは違い、ちょっとがっかりしたが、歌声はまごうことなき、あの「小椋佳」であった。

じっと目をつぶって聴いてみる。甘く切ないメロディ、歌詞、そしてあの声。懐かしさで心がいっぱいになる。

これ以上はない、完璧な世界に身も心もゆだね、時が過ぎるのも忘れていた。

そしてふと、気がついた。

私にとって、彼の音楽は「温泉」なんだ。

優しく悲しみを湛えた音楽に、裸になって横たわる。
ポジティブ・シンキングなんてくそくらえだ。ひたすらこの温かな世界にひたっていたい。

曲でいえば、「シクラメンのかほり」や「俺たちの旅」は伊豆のシャレたリゾートホテルの、「愛燦燦」は、有名老舗旅館の、「夢芝居」は別府の猥雑な温泉街、「木戸をあけて」や「ほんの二つで死んでいく」は、名もないひなびた露天風呂の温泉だろうか。

などと夢想しているうちにふと、自分が今、思考停止しているのに気づく。

これはいかん。

そういえば小椋圭の曲には悲しい思い出しかない。
さびしい時、つらい時、彼の音楽で気を紛らわせていたからだろう。

生暖かい世界にひたっていては成長はない。

小椋佳は、年に一度、身も心も疲れきった時だけ、聴く事にしよう。

そして、歯を食いしばって音楽を消した。

彷徨