私は戦争映画が好きなのだが、最近特に気に入っているのが、『ジャーヘッド』そして、『ブラックホーク・ダウン』だ。

前者は湾岸戦争、後者はその一年後のソマリアが舞台で、どちらも名もなき若きアメリカ兵士たちが主役だ。

「ジャーヘッド」では、やる気満々の戦意高揚たる兵士が、結局実戦で一度も銃を使わないまま、戦争は終わる。
そして、「ブラックホーク・ダウン」では、30分で終わるはずだった作戦が長引き、敵味方両方に、数多くの犠牲者を出すのだ。

さて、ベトナム戦争以降、アメリカは見えざる敵と戦ってきた。

これら二つの戦争もそうなのだが、まだ湾岸戦争は「サダム・フセイン」という絵に描いたような「悪役」がいる。
だが、「ブラックホーク・ダウン」のソマリアには、明確な敵はいない。

映画の中で将軍がいみじくも言ったように「ソマリアはイラクよりも複雑なのだ」

アメリカ兵を襲う民兵も、死んだ米兵を引きずり回した暴徒も、彼らを出迎えてくれた住民も、お水を運んでくれる軍の召使も、皆、ソマリア人なのだ。

「一体何のために戦うのか」

リアルでかつ美しい映像(残酷な戦闘シーンを美しいというのも変な話だが、でも事実なのだ)の中で、兵士らの脳裏に去来したものは何だろう。

デルタフォースの精鋭である軍曹はこう言う。
「俺は仲間のために戦っているのだ」

そういえば、この戦いでは、米兵は敵を倒すことより、いかに負傷者を救出するかに重きをおいているようだ。

映画の中で、重傷の若い兵士が友人に「俺の両親に、勇敢に戦ったと伝えてくれ」と頼み、友人が「そんなの自分で言えよ」という、戦争ものでよくあるシーンがあったが、なんとも切ない。

第二次世界大戦の対ドイツ軍や日本軍との戦争ならば、彼の両親も心ならずも納得するだろうが、このソマリアの地で、仲間を助けようとして犠牲になった息子の死を、どう認めるのだろうか。

仲間同士、励ましあい、助け合う彼らは美しいが、そんな態度、ソマリア兵にしてみれば不遜でしかありえないのだ

ジャーヘッド プレミアム・エディション