先ごろ、司馬遼太郎著『坂の上の雲』八巻を読み終えた。

途中、中だるみもあったのだが、八巻め、いよいよロシアのバルチック艦隊と東郷平八郎率いる連合艦隊との決戦で、クライマックスを迎え、最後、秋山兄弟の晩年をさりげなく伝えることで、この偉大なオーケストラは幕を閉じた。

photo_saneyuki04saneyuki_1秋山真之海軍中佐は当時38歳で、司令官東郷平八郎の軍事参謀として「三笠」に乗り込んでいる。海戦の作戦はほとんど真之によって作られたといっても過言ではない。

この長い物語は端的にいえば、日本海海戦での勝利という一瞬のためにあり、すべての登場人物すべての事柄はこの一瞬に収斂される。

さて、明治38年5月27日の日没、日本の勝利がほぼ確定した時、真之は何を思ったか・・・・・・。

(どうせ、やめる。坊主になる)
 と、みずから懸命に言いきかせ、これを呪文のように唱えつづけることによって、その異常な感情をかろうじてなだめようとしていた。真之は自分が軍人にむかない男だということを、この夜、ベッドの上で泣きたいような思いでおもった。兄の好古へのうらみが、鉄の壁にさえぎられた暗く狭い空間の中で、灯ったり消えたりした。

天才軍師と呼ばれた真之だが、勝利に酔うどころか、敵味方関係なく、彼の指揮の元、多くの人命が無残に失われたことに衝撃を受け、軍人になったことを大いに悔やんだのである。

戦後、彼は仏門に入ろうとしたが、友人らが懸命に押しとどめたため、坊主になることはなかった。
その代り彼の長男が、父の遺志で無宗派の僧としてすごしたという。

また真之は戦後、宗教にはまり、軍内での派閥争いにも敗れ、不遇のまま50歳で生涯を終える。

彼の辞世の句は
「不生不滅、明けて鴉の三羽かな」

この三羽とは、俳人で友人の正岡子規と、同じく友人の清水則遠と自分のことだと思われる。

この三人は幼なじみで、東京の学校で文学を語り、青春を謳歌した仲間だった。
ちなみに清水則遠は、栄養不足による脚気が原因で大学生活のさ中、突然亡くなっている。

そして正岡子規も日露戦争勃発の2年前に脊椎カリエスで亡くなった。

天才軍師は晩年、日露戦争のことなど知らない友人らと酒を酌み交わし、融通無碍に語り合うことを夢見ていたのだろうか。
坂の上の雲〈8〉 (文春文庫)
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