シュミット村木眞寿美著『ミツコと七人の子供たち』は、光子の残した手記の他、子供たちが語った母の情報を基にしている。

光子と社交界ところで光子は手記の中で、人の悪口は一切書いていないし、デリケートな話題も巧みに避けているという。

これは子供たちに残すものだから、というのもあるが、やはり明治の女性の慎ましさからだろう。

だから夫婦の結婚についても、客観的な事実は判っても、その心情については何も語られていない。

残された結婚証明書によるとハインリッヒとみつが式を挙げたのは明治25年3月16日と書いてある。だが、ハインリッヒの来日がこの年の2月29日だから、たった16日で、出逢って恋に落ちて結婚するとは考えにくい。

なおドイツ貴族名鑑の記載では「同年12月16日入籍」となっているが、これは長男ヨハネス「翌年9月16日誕生」に、無理やり10か月前に合わせた印象だ。

結婚前18歳のみつの写真を見ると、すらりと背が高く、目鼻立ちもはっきりとして可愛らしい、現代でも通用する美人だ。

みつは東京牛込の「骨董商」青山喜八の三女として生まれた。

父親の喜八は商人というよりも道楽者で、賭け事や女や骨董に興味を持っていたらしい。そのため彼の父親から廃嫡され、財産は姉と養子に譲られていた。

なお、その養子の息子が、骨董の目利きとして有名な、白州正子の師でもある青山次郎である。

光子と子供たちこれは私の勝手な想像だが、喜八は、日本の骨董品に興味を持ったハインリッヒと出逢い、ひそかにみつを紹介したのではないだろうか。

ハインリッヒは当時33歳。若い頃、激しい恋をしたが、父に反対され、愛する恋人が自殺するという辛い体験をし、その傷心はまだ癒されていなかった。

元々仏教にも詳しく、東洋文化に深い理解があった彼は、黒い瞳の可憐な少女にたちまち惹きつけられたのだろう。

明治時代、尋常小学校もろくに出ていないみつにとって、異国の男との結婚は恐怖だったと思うのだが、娘は父親に絶対服従だった時代、親の言う通りにするしかなかった。

これは後で分かるのだが、ハインリッヒは結婚後もみつの実家に、毎月100円もの大枚を仕送りしていた。

明治中期の100円は今の100万だから、年間1200万円の不労所得が喜八にはあったわけだ。

喜八との間にどんな契約が交わされていたのか知らないが、みつの夫は律儀にその約束を守っていた訳で、喜八にとってはまさに金の生る木。

そして、みつは夫の死後、借家暮らしになっても父に死ぬまで送金していたらしい。

実家に帰りたくても帰れない。結婚は父にとって金蔓なのだから。

彼女はこの異国の地で生きていこうと強く決心したことだろう。

夫が生きている間はまだ良かった。

伯爵夫人としての優雅な暮らし。7人の子供にはそれぞれ乳母と家庭教師がつき、みつは子育てに追われることもなかった。

そしてみつの子供はみな優秀だった。

だが子供たちの優れた知性が、やがてみつを苦しめることになるのだ。

続く。。。。。