ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

Category: 戯言

昨日、何年かぶりかで、フジテレビ『SMAP×SMAP』を見た。

トニー・レオンと金城武君が「ビストロスマップ」のゲストで登場すると聞き、これはぜひ見らねば、と思ったのだ。

今回は録画だし、ゲストも2人だし、トニー・レオンと木村拓也は、以前映画『2046』で共演した既知の間柄。

生放送でしかもトニー1人だった先週の『スマ・ステーション』よりは安心していたのが甘かった。いざ登場したトニーさんの服装・・・・・。

黄緑色のよれっとしたパーカーと着古した感のカーゴパンツ・・・・。

まるでパチンコ帰りのおっさんが、スタジオに紛れ込んだような。。

金城君はノーネクタイに黒のジャケットで決めているのに。

いや彼らしくていいのだけれど、一応『SMAP×SMAP』は高視聴率を誇る、日本を代表するバラエティ番組。あまりにもゆるすぎる。

着替えはそれしか持ってこなかったのだろうか。
中居君も「トニーさん、質素な格好ですねぇ」って言ってたし。

実は、パーカーと呼ばれるフード付スウェットシャツについて、思うところがあるのだ・・・。

To be continued〜〜トニービストロスマップ

 

 

 

 

 

昨日、何年かぶりかで、テレビ朝日『スマステーション」を見た。 

香港の俳優、トニー・レオンが出演すると聞き、これはぜひ見らねばと思ったのだ。

タローちゃんといっしょ彼のテレビ出演、それも生放送ということで楽しみよりも、心配が先に立つ。

トニー・レオンという俳優、アジアの大スターでありながら、そのたたずまいはなぜか脱力系で低調、へたれ感が漂う(哀愁ともいうが)

自己アピールが下手で、およそエネルギッシュさを持ち合わせない彼が、日本の代表的アイドル「SMAP」の番組、しかも生放送に出て大丈夫なのだろうか。

トークは大丈夫か、ちゃんと香取クンとからめるだろうか、香港映画を見ない人から「何コイツ」と、どん引きされないだろうか。

赤壁それより何より服装は?いつものように普段着テイストの格好だったらどうしよう、寝ぐせは大丈夫か(まあ、これはいくらなんでも周りの人が注意するだろうけど)

あれやこれや心配するうちに番組が始まる。

う〜んトニーさん、笑顔が可愛いけど、やっぱり香取クンとの会話がいまいち噛み合わないし、ぎこちない。時々微妙な「間」も出来てしまう。

番組最後の方、やっとトニーが、ハリウッドの、香港俳優に対する扱いについて自分の意見を述べようとしたところでCMが入ってしまうし。

不完全燃焼のまま、番組は終わってしまったが、取りあえずホッとする私は、親戚のおばさんか。

ところで、そんなトニーが出演する映画『レッド・クリフ』がもうすぐ公開されるが、今回はあくまでPart気任△襦
メインの有名な「赤壁の戦い」のシーンはPart供文開日未定)なのでお間違えなく。

レッドクリフ (トニー・レオン、金城武 主演)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三浦和義氏が自殺した。

数年前、ある雑誌に載っていた彼の書評を読んだことがあり、本が好きな人なんだな、という印象が残っている。

スー・グラフトン著の探偵小説、キンジー・ミルホーンシリーズを褒めていたのも意外だった。

もうロス疑惑の事なんか思い出したくもないだろうに、カリフォルニア在住の女性私立探偵による、殺人事件ものが好きなんて。

話かわって、今から20数年前のロス疑惑報道は凄まじいものだった。

朝からテレビのワイドショーは連日三浦和義ばかり。活字メディアも、「週刊文春」を始めとするおやじ雑誌、女性週刊誌、こぞってロス疑惑で埋め尽くされていた。

おいおい、もっと他に報道すべきものがあるだろうと思ったものだが、あの集中砲火は一体何だったのだろう。

また三浦氏自身もよくメディアに露出していた。

それは、目立ちたがり屋といのもあるかもしれないが、マスコミから逃げられないと悟った彼が、いっそマスコミに迎合し、こっちから話題作りをしようと判断したのかもしれない。攻撃は最大の防御である。

さて、そういった中で心に残っているのが、当時、林真理子氏が週刊誌に載せたあるエッセイだ。

疑惑報道のさ中、三浦和義の家の夕食に招ばれた時の事を嬉々として書いているのだ。

その頃、彼女は売れっ子のエッセイストで、自ら、ミーハーで好奇心は人一倍旺盛と言って、はばからなかった。

だから三浦氏に強い好奇心を持つのは分かるが、これは、いくらなんでもはしゃぎ過ぎだと思った。人を殺したかもしれない人なのだから。

作家としての性なのか、それとも「有名人」を知っているという天狗の鼻が彼女を駆り立てたのか。

今、大作家になった林真理子氏の悪口を書く気は毛頭ないのだが、この一点だけがどうもすっきりしないのだ。

そして今、三浦氏はロス疑惑について自分で決着をつけた(それが正しいとは思わないが)

当時、ロス疑惑にかかわった文化人やマスコミは、どう落とし前をつけるのだろうか。桟橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かめバスに乗ったとき、運転席にこんな張り紙があった。

『私たちは地球の環境と未来のため、アイドリングストップ宣言をします!』

・・・・・・・・・・。

おいおい、たかが停車の時エンジンを切る行為に、なぜそんな大仰なまくらことばが必要なのか。

最近の、マスコミなどのエコへの取り組みはなんだか狂信的だ。

エコにあらずんば人にあらずみたいな。

テレビやラジオで、話題が地球環境問題になると、思わずスイッチを切ってしまう。

地球環境やエコ活動を語る人の、いかにも上から目線の物言いや、
自分は立派なことを語っていると信じ込んでいる、呆けた顔を見たくないからだ。

人前では言えないから拙ブログで、ひっそりと叫ぶ。

「私はエコが大きらいだ―――!」

私自身は車に乗らず、なるべく歩いている。エアコンも一人の時はほとんどつけない。冬場も暖房はあまり使わないし、食品なども必要以上に買わない。

でもそれはエコのためではない。節約と自身の健康のためだ。

いつから日本人はこんな大仰な物言いをするようになったのだろう。

北極の白くまさんの未来なんて、知らないよ!

さて白くまといえば、私はアイス、「南国白くま」が大好きである(強引な展開)

かき氷のミルクかけに、パイナップル、みかん、あずきをのせたカップアイスだ(棒キャンディもあり)

その質素なたたずまいと、何ともたよりない甘さは郷愁を誘う。

ほこりっぽい田舎道で、歩きながら飲んだラムネ。川遊びで体が冷えた時、祖母が飲ませてくれたしょうが湯。香取線香の匂い。薄暗い蚊帳の中。

すべての記憶はたよりなく、そしてほんのり甘い。

クーラーのない部屋で、南国白クマをほお張りつつ、遠い夏の日に思いをはせながら、熱帯夜は更けていく・・・・。

南国

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日友人と雑談していた時、彼女がこんなことを言った。

「日本人って、花鳥風月、四季の移り変わりを昔から歌や詩にしてきたけど、『星』をテーマにしたのってあまりないよね」

むう、確かに「桜」などの花々、「月」や「夕暮れ」などをテーマにした歌や詩は多いが、「星」はあまり聞かない。

あんなに四季のうつろいに敏感な日本人が、星について関心を寄せないのはなぜだろう。

七夕伝説だって、中国のものだ。

振り返って西欧ではギリシャ神話に代表されるように星座にまつわる伝説や神話が多いし、東方の三博士は星占いで救世主の誕生を予言し、星に導かれてイエスを礼拝しに来る。

砂漠つらつら考えるに、中国大陸やヨーロッパなどの人びとは、長い間狩猟や放牧で生活してきた。
地図やコンパスのない時代、長い長い距離を馬やラクダで移動するのに、星の位置を把握することは必要不可欠である。

星に関心がいくのも道理だ。

それに比べ日本は農耕社会、長い距離を移動する必要はない。
旅といっても、江戸時代であれば、一生に一度か二度、お伊勢参りをするくらいだろう。

だが、たとえ旅をしなくても、夜空に瞬く星たちを眺めていると、月に負けず劣らず美しいのにぃと思う。

そしてこうも思った。

日本人は星があまり見えなかったのではないか。

元々遠くを眺める必然性のない民族に加え、目に良いとされるビタミンAやB類を含んだ食べ物、例えば牛、豚、レバーなどを食べる習慣がなかった。

かてて加えて、日本人の識字率の高さだ。鯨

それはつまり電気のない昔、薄暗いロウソクや行燈をたよりに書物を読んでいたということで、視力が悪くなるのは当然だ。

教養のある風雅人ほど視力が弱かったのかなぁと推察する。

ちなみに私、年寄りのくせに視力は両目共1.5。数年前までは2.0だった。無駄に目が良い。

満天の星を眺める幸せを感じながら、自分が風雅人でないことを残念に思うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ数日、福岡地方は黄砂に見舞われた。

折悪しく雨模様だったため、雨上がりの家の窓や壁、車のボディは黄色い跡がべっとり残り、きたないことおびただしい。

むろん黄砂は昔からあるものだが、ここ最近中国の環境汚染や公害のニュースを見聞きしているためか、おおらかな気持ちでこの自然現象を受け入れられない自分が悲しい。

なぜ中国はこんなふうになってしまったのか。

確かにこの国の政府首脳の発言にはムカつくことも多いが、中国文化においては昔から大好きだった。

子供のころは「三国志」や「水滸伝」に夢中になったものだし(つか読んだのは児童用だが)、書や陶磁器はやはり中国が一番だと思う。

映画も良い。香港映画『男たちの挽歌』を観てしびれて以来20年、香港ひいては中国映画が大好きになった。

香港映画の良さはその圧倒的なエンターティメント性だろう。

面白ければ細かい事は気にしない、という思い切りの良さが信条だ。

そして大陸の中国映画は何といってもそのスケールの大きさ。

あまりに大きくて悠々としすぎて、時に眠くなることもあるが、どちらも日本にはないおおらかさがあり、それがO型の私には心地よい。

この国は大局を見つめ、小さいところは気にしない。

それが今、すべて裏目に出ているのかもしれない。

政府間のことは置いといて、民間レベルにおいては、この大らかな隣人からは学ぶべきことは多いと思う。

男たちの挽歌


 

この頃、拙ブログはももちゃん放置プレイ状態なのだが、何しろ今は、他人のブログを観るのが楽しくてしょうがないのだ。

ちょっとした調べ物がきっかけで、様々なブログを巡回するようになってあらためて思った。

世の中には教養のある、あらゆることに造詣が深い、そしてセンスのあるスマートな文章を書ける人々が何とたくさんいることだろう。

今まで漠然としていた多くのクレバーな人が、「ブログ」という形によって、より具体的に明確になってきた。

ブログの弊害を唱えたり、「すべて実名にすべし」などとほざいているマスコミの人たちは、結局自分らの足元がすくわれるのが怖いのだろう。

閑話休題。最近話題の映画が多く上映されている。

お正月映画がサッパリだったので、第2弾のこの時期、なるべく時間があれば観にいきたいと思っている。

そんな中、期待して劇場に足を運んだ英国映画『エリザベス・ゴールデン・エイジ』なのだが、気がつくとみごとに爆睡状態だった。

私は映画館でめったに眠たくなることはないので、自分でも驚き、何とか映画に集中しようとしたが駄目だった。

退屈でしょうがなかった。

不思議だ。衣装もセットも豪華だし、ケイト・ブランシェットもクライヴ・オーウェンも好きな俳優なのに。

まず、スペインの無敵艦隊に立ち向かう女王がメイン、と思っていたのだが、どちらかというと、女王とその侍女そして冒険家ローリー卿の三角関係が中心で、それがどうも眠気を誘ったようだ。

女王なのだから、好きな男がいれば自分の権威でどうにでもなるものを、まるで小娘のようにイジイジしているのが何ともつまらない。

これが市井を舞台にした三角関係の作品だったら、それなりに面白いのだが、権力の頂点にある女王が同じことをしても・・・・。

がっかりしたまま自宅に戻り、この作品のレビューをネットで見ると、意外や意外(つか自分以外)賞賛している意見ばかりだ。

そうなのか・・・・・。

こういう少数意見を述べるためにもやはりブログは必要だ。頭よくなくても、文章のセンスが悪くても・・・・。


 

 

 

 

 

 


 

船まことにスットコドッコイな話題で申し訳ないのだが、むかし、官官接待で、『ノーパンしゃぶしゃぶ』が話題になったことがある。

その言葉を初めて聞いた時まず頭に浮かんだのは、官僚たちの不正に対する怒りでも、モラル低下への嘆きでもなく、

「食欲と性欲は両立するのだろうか」という素朴な疑問だった。

「ノーパンしゃぶしゃぶ」がどのような形態で営業しているのか知らないのでそこらは割愛するが、美味しい料理をいただきながら且つおみだらを楽しもうとしても、お互い気が散って結局満足を得られない気がする。

それとも官僚のセンセー方は、そんな複合的な楽しみを知っていらっしゃるのか。

もし自分が接待される側だったら、落ち着いた店で美味しい和牛しゃぶしゃぶを堪能したあと、しかるべき所でのしかるべきサービスを望むだろう。

私は何かを楽しみながら食事をするということが出来ない。

だから皆と昼食をとる時も、つい無言でがつがつ食べてしまう。

これじゃ、人が近寄ると歯を剥いて吠える、ガッツいた野良犬と変わらない。

現代人らしく、会話を楽しみながらゆっくりと食事をするのはいつの日だろうか・・・。

道

 

 


 


明けましておめでとうございます

今年が善き一年でありますように

さて、お正月といえばお節料理である。

下手の横好きで毎年作っているが、実にお節とはくやしい料理だ。

1年に1回しか作らない、いわば一発勝負であるから、ついぼんやりして火を通しすぎ失敗しても、リベンジできるのは1年後である。

12か月当然1年前のことはすっかり忘れているので、同じ失敗を繰り返すか、新たな失敗を仕出かすのどちらかだ。

今年は黒豆がしわしわだった。差し水の仕方が悪かったのか(しわしわ黒豆も好きだが)。

ゆえに「今年は忙しくてうまく出来なかったの〜」と毎年同じ言い訳をしている。

実を言うと下手な人間が作るより、デパートで買った方が簡単でしかもおいしい。家族もそう思っている。

だが、一旦、「別に私がしなくても・・。」といい出したら、いい加減な私のこと、すべてにおいて、まるでダムが崩壊するかのごとく、怠惰の海に沈んでしまうのは目に見えている。

目の前の課題を愚直にこなす。そんな1年にしたい。フウジンライジン

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フラワーここ一週間、老母の体の具合が悪く、病院と自宅を行ったり来たりしている。

やっと容態は安定してきたが、ここに来て思わぬ発見をした。
わが愚弟のことである。

普段は縦のものも横にしない、絵に描いたようなナマケモノなのだが、病気の母に接する態度、その介護のようすは、まるで痒いところに手が届くようなきめ細かさなのだ。

母も、娘の私に対しては遠慮が感じられるのに、弟に対しては全面的に信頼し身をゆだねている。

母と息子の濃厚な空間を垣間見、リリー・フランキー氏の『東京タワー』の大ヒットは伊達ではなかったのだ、とつくづく感じた。

実は今まで、なぜあの物語がメガヒットしたのか、よく分らなかったのだ。

さて、それに比べ娘(というか私だが)は冷たい。

母が入院する時も、まず思ったのは、「ああ、明日観るはずだったミュージカル、キャンセルだな、う〜ん残念」だもん。

母の容態よりも自分の楽しみが先に心に浮かぶ、まるで鬼のような娘だ。

だが冷たい娘であろうが、鬼嫁であろうが、この超高齢化社会。否が応でも介護の必要性が出てくる。

鬼嫁らの良い所は、普段からあまり期待されていないので、介護のプレッシャーでノイローゼになったり、自分で全部背負い込んだりしないことだ。

『東京タワー』の「ボク」のようには出来なくても、鬼嫁や鬼娘でも、やる気はあるのだ。

だから老親たち。大目に見てね。

 

 

 


 

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