ある活字中毒者の日記

       神は細部に宿る

Category: フランス文学

フランス、ゲランの香水に『夜間飛行』というのがある。

私は香水は使わないので、どんな匂いなのか知らないが、サン=テグジュペリ道の小説から触発されたというから、なんとも意味深なネーミングだ。

異国の空の下、頼りなくさまよう複葉機。目にみえるのは星空だけ。

そんなロマンティックな未知の世界を期待して、小説『夜間飛行』を読み始めたのだが、これが、さにあらず。全く予想外の内容だったのだ。

これは、航空輸送会社の支配人、リヴィエールを中心にした、わずか
10時間ほどの物語だ。

峻厳な支配人は、配下の操縦士たちに厳しい要求をし、どんな小さなミスも容赦なく処罰する。

彼らの責任外である、天候上の理由による遅刻や事故に対しても、処罰は緩めない。

そして何よりも弱気は許されない。

20世紀初め、まだ黎明期である航空業界で、あえて危険な夜間飛行を成功させるには、それだけの厳しさが必要なのだろう。

支配人は命令するだけで自分では動かない。危険な業務は操縦士たちが行う。

ある意味、空を飛んでいるよりも、精神的にハードな職務だ。彼は配下の監督者にこう言う。

「部下の者を愛したまえ、ただ彼らにそれと知らさずに愛したまえ」

また、「愛されようとするには、同情さえしたらいいのだ。ところが、僕は決して同情はしない。いや、しないわけではないが、外面に現さない・・・・」

そして操縦士たちは、彼の理不尽とも言える命令を受け入れ、命さえ賭ける。

行方不明の操縦士、ファビアンの安否を気づかう若妻さえ、リヴィエールの私心のない姿に圧倒される。

そして夫ファビアンは、台風で方向を見失い、罠と知りつつも、光に向って上昇するのだ。そこで見る夢のような美しい世界・・・・・。

同情や偏見、馴れ合いがなくなった時、始めて本物の美しい世界が作り出されるのだろう。

ところで、このリヴィエールにはモデルがいた。
実際にサン=テグジュペリの上司であったディディエ・ドーラがその人で、サン=テグジュペリは彼に心酔し、ドーラが社内の争いで会社を去った時、彼も辞めたという。

勇気、責任感、自己犠牲。

小説『夜間飛行』は、私には、少しビターな、それでいて清々しい心躍る香りに思えた。

夜間飛行

 

 

 

 


 

星飛行気乗りであったフランスの作家、サン=テグジュペリの書『人間の土地』を読んだ。

この人の本は、昔々絵本で『星の王子様」を読んだきりで、美しい物語を残し、夜間飛行のはてに星空へ消えていったむちゃロマンティックなパイロットというイメージしかなく、特に興味はなかった。

ところが最近読んだ池波正太郎さんのエッセイで、氏は、もっとも影響を与えた書物に、サン=テグジュペリの小説・エッセイを挙げているのだ。

株で大もうけしながらも、荒れた日々を過ごしていた若い日、『人間の土地』と出会い、激しい衝撃と共に、自分を情けなく思ったという。

何が池波氏の心を惹きつけたのか、知りたくて本をひもといたが、読後、満足感で一杯になる。

まず冒頭の「ぼくら人間について、大地が、万卷の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ」に、しびれる。

そして、20世紀初頭のパイロットという、死と隣り合わせのリスキーな職務につきながらも、彼とその僚友たちの言葉や行動の、なんと詩的であることか。

サハラ砂漠で遭難し、3日間飲まず食わずでさ迷い歩くさまも、まるで苦しみが極限に達し、その苦しみがもはや貴重な甘露のようで、自分もその恐ろしい体験を味わってみたくなる。

当時アフリカの国々はフランスの植民地だったから、サン=テグジュペリもアフリカ人に対して、差別意識からは逃れられない。

だが彼はかの地の人々を軽蔑はしていない。

珍らかな客人として彼らと接している。

サン=テグジュペリが軽蔑しているのは、机の上で、何もせずに文句ばかり言う小役人だけである。

彼の澄んだ瞳で見つめられたら、きっと自分が恥ずかしくて、身の置き所がなくなるだろう。池波氏も同じだったに違いない。

彼は、悪しき行動主義者ではない。彼は農民が鍬を使うように飛行機を扱う。あるいは園丁が薔薇を丁寧に育てるように・・・・。

そのようにして人も育てられるのだ。

精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。

人間の土地

 

 

 

 

 

松林2新緑の美しい季節。最近なるべく時間を作っては緑の中を散歩するようにしている。あとひと月もすれば紫外線も強くなり、とてものんびり歩き回るなんて出来ないから、今のうちにじゅうぶん英気を養うわけだ。

そんな時必ず文庫本を持っていく。太陽の下、のんびりと本を読むのは至福のひと時だ。

この前は海を眺めながらフランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」を何年かぶりで読み返した。そして、やはり泣いた。

いつも思うのだが、太陽は時々人を狂わせる。青い空と光を浴びていると、得たいの知れない万能感が溢れてきて、妙に気持ちがハイになる。

17歳の少女、セシルはすべてを支配していた。夏、若さと美貌、父の愛情、そして新しい恋人。それを邪魔するものは許せなかった。彼女は自分の心も傷つけながら、恐ろしい計画をたてる・・・。

 

ひとつ言える事、太陽の下で、重要な計画を建ててはいけない。

 

 
悲しみよこんにちは

学生時代、憬れていた大人の女性がいた。それはフランソワーズ・サガン著「優しい関係」の主人公、ドロシーだ。

45歳、バツイチで一人娘は結婚し、シナリオライターとして気ままな独身生活をしており、恋人もいる。ややアルコール中毒のきらいがあり、男好きでだらしないところもある女性だが、なによりも健全で善良な魂の持ち主である。

物語は、あるきっかけで若い青年が、この女性の家に空住むことになり、そこで繰り広げられる恋人との三角関係と、謎の殺人事件。サガンの小説では珍しいサスペンスティストの作品だ。

ドロシーのサッパリした性格と、舞台がアメリカの陽光輝くハリウッドのせいか、読後感は、爽やかで明るい。

この作品は、サガン作品独特の過剰な虚無感や諦念が少なく(もちろんこれは魅力なのだが)初めての方も読みやすいと思う。そして、主人公のなんと親切なこと。“親切にする”ということが、どんなに人を感動させるのか分かる。

さて、彼女のような“憬れの女性”には、とうとうなれなかったが、せめて頑張って、人に親切な女性を目指すことにしようか。

 

  



優しい関係

  カミュ著「異邦人」の主人公ムルソーは、抱きしめたくなるほどいとおしい、バカ正直でタイミングの悪いやつだ。彼は、もっともらしい(しかし意味の無い)言葉を吐き出す、いやらしい大人たちとは対極にある。

世間は「定型化」からはずれた人を許さない。たとえ形だけでもママンが死んだ時には悲しそうにするべきだった、葬式のすぐ後、海水浴に行ったり女と遊んだりするべきではなかった。「太陽のせいだ」などとわけわからん事を言うべきではなかった。べきべきべきの嵐。

この小説は最初ゆっくりゆっくりスタートし、途中でだんだん加速して、クライマックスでいきなり終わってしまう。たとえれば全速力で走っていて、崖の上ぎりぎりでストップした感じ?もし未読の方がいたら、最初は少しかったるいかも知れないが、最後まで読んで欲しい。きっとカタルシスを感じる筈だ。

それにしても、ムルソーが海で女とたわむれるシーンの美しいこと。光り輝く太陽、海、空、あまりに美しすぎて逆に彼が死に向っている事を予感してしまう。いや彼だけの死ではなく、今、太陽の下で若さと美しさを謳歌してるすべての人にも、やがて永遠の死が訪れる、海や青い空とたわむれるのも束の間のことなんだと悟ってしまう。そんなそこはかとない空虚感がこの小説にはある。

自分はまだ「異邦人」を充分読み込んでいないので、多少理解不足だと思うが、これから何度もこの本をひもときながら、ムルソーとの束の間の逢瀬を楽しみたい。

                                                                            
異邦人


異邦人

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